♭ おたずねくださり、ありがとうございます ♯
(人目の方)
「世界は美しい」なんてずい分恥ずかしい題名で書いてしまったが、これもやっと④、終章に近づいてきた(なんて、最後までバカ言ってすみません)。
前回かいたように“美しさ”とは一種のお気に入り、好みの問題だと思う。
自分にとってのそういうものをなるべくたくさん見つけることは、人生を豊かにすることにつながる。いわゆる趣味の類い。
この前、ほんわか気分になったテレビドラマをみた後に、ふと妻が言った。「ヨカッタね!いいものみてもその『よさ』を感じられなかったらつまらんよね」
そう。何かのメッセージが送られてきても、それをしっかり受けとめなければ。
ドラマのような創作だけでなく、自然のような言葉のない世界からも。
ところで、こむずかしいことを言うけれど、ここはガマンして聞いてください。
- 美しいものを美しいと感じるためには、“理解”が必要である。
「美しいから美しいのだ」だけでは、簡単に「イヤなものはイヤなのだ」になり、はやりのヘイトスピーチのようになりやすい。
“理解”とはけっこう難儀なこと、面倒くさいことだが、避けて通けて通るわけには絶対いかない。
(そのことでは私は苦い経験があり、「性同一性障害」のことを話したばかりです)
これも自分のこと - 結婚を決めるとき「なんでこの人に決めるのか?」と、いろいろ考えた。悩んだすえにたどり着いた考えはちょっとこじつけのところがあり、スッキリとはいかなかったが、いちおう納得できるものだった(それが何であるかはいまはどうでもいい)。
だが、この“理解”(今の話では結婚観)のおかげで、以後の人生において世界は「ボロボロ」と悲観することがなんどもあったが、離婚の危機にも直面したが(私のほうから切り出したことはもちろん全然なかった)、それらを乗り切った。
(成就されようがされまいが、人生の“試練”というか“壁”は、人を成長させる)
「…でも『一目ぼれ』というのはありうるわなー」。
先に感性ありき、というのもアリとは思うが、これは卵とニワトリの話のようなものである。そんな堂々巡りの話は今はするつもりはない。
ちょいそこの若いの。「ねえねえ見て。キャー!私、これ好きだわぁー」もいいが、なんで好きなのかはちゃんと考えておかなくちゃーならないよ。