カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

カメキチの目(2015.5.9 「主治医」について考えた)

 

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   おたずねくださり、ありがとうございます 

  

   

 

 

 

 

 「死」はたしかなコトである。

 地震のような想定ゴトではすまない。

 それに、まったく個人的なことなんだけど、日本で生きたので日本の法律に縛られる。

 具体的には医者のだれかさんに、「たしかに死んだ」と判断してもらわなければならない。

 

「死亡通知」を出してもらわねばならないし、いやおうなく、そのときは世話にならなければならないので、こんどの受診で、“主治医”の存在みたいなことを考えた。それに、「死にぎわ」なんて、ふだんは考えることないが、一度じっくり想像してみることは、よく生きるために必要ではないだろうか。

 

  私は障害が残り、そのことでの「苦労」もあるけれど、けっして負け惜しみでなく、だいじな多くのことを学んだ(じっさい死んでいたら死にぎわもクソもなく、こんなこと言えませんね)。

 

 ケガや病気がなおらなくても、「こんな先生にみとってもらえてよかったなぁ…」と思える医師に出あえたらしあわせである。

『あきらめる』で有名な鎌田医師もそうだが、徳永進という先生は自分の理想を実践するため、『野の花診療所』という小さな医院を鳥取に開設され、だいぶん経つ。

  徳永医師が著書で述べておられる医療と人間(住民)のあり方には共感することがいっぱいある。

 たんたんと生き、死ぬ。

「死とは生である」ことを、先生の著作からすごく感じた。

 

 死はとくべつなものではない。きわめて日常的、身近で、毎日か2,3日して着替える服みたいなもの。

 人はだれもが野にひっそり咲く花であり、みんな美しい

 その理念、方針が『野の花』という診療所のネーミングにあらわれている。

 

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                   ちりとてちん

 

49 ボート・レース

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48のボートを2台用意しました。が、何台でもかまいません。

船底にボンドでマッチ棒でも立て、帆を張る(風を受けとめる小さな紙切れを

つける)。そこに息を吹きかけ、さぁ、スタートです。

 

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