カメキチの目
著者は、相手はナマコといいながらも、いや対象がナマコのように人間とは姿・形もかけ離れているからこそ、よけいに人間の現状がナマコにあぶり出され、人間の「在るべき」「在ってほしい」姿を感じとられているのかもしれない。
(画像は「YAHOO」検索画面に「なまこ」と入力し、そこにいっぱい出たなまこの写真の一つをお借りしました。「YAHOO」さん、ありがとうございます)
「生物多様性」という言葉が、そのことがたいせつ、貴重という文脈のなかでよく口にのぼるが(私もよく言う)、著者の本川さんは「さすがは生物学者」と読者がうなずくよう、平易にその意義を書かれる。
「なんで、ある生き物の絶滅はいけないのか?」(先日、なんとキリンが絶滅危惧種に指定されたと知りビックリ!)「人間に有益な、無益であってもなじみがあるとか、それだけでいいのじゃないか?」「まだ名もつけられていない生物が限りなくいるのだから、少々ある生物種が絶えたり、減ってもいいのではないか?」
生物多様性がたいせつなわけは、さまざまなある(詳しく知りたい方は直接、本をお読みください)けれど、
私は「内在的価値」というものに心を奪われた。
人間にとって役に立つとか立たないとか、そんなものではないということである。
「有益」「無益」ということは近視眼的にみたらそうかもしれないけれど、長い目でみたら、また別な目(他な視点。トンボのような複眼)でみたら違うかもしれません。
そもそも、「役に立つ」とか「…立たない」というみかた自体を問わなければならない、と私は思う。
相模原障害者刺殺事件。重い障害をもった人たちを「役に立たないから」「社会的コストの無駄だから」殺したという犯罪。
人間の目からみれば「弱肉強食」のようにみえる人間以外の生き物たち。
いっけん、人の目からは「残酷」なようでも、それが自然です。
彼らにはその自然は「真実」だと思う(「自然の掟」)。
弱いモノを守る。
動物にはできないことが、人間にはできるようになった。
それが「人間らしさ」とか「人間性」といわれるんではないでしょうか。
著者は、現代人のわれわれは功利主義者(「利己主義者」とも言っておられます)で、自分の幸福をいちばんにしているから、幸福をかなえるために役に立つものしか価値を認めない。「役立つ」、つまり手段的な価値(内在在的な価値に対して)だけを問題にする。
生物の内在的価値なんて、「個人の自由」「多様な価値観」という人間中心が重視される世の中にあっては、尊重されるべきと言ってもむずかしい。
現代では困難、ムリな話でも、ずっとずっと先、未来社会においてそうなればいいです。
人工知能とかロボット、バイオとか遺伝子、つまり科学技術の発展・進歩が「人間的」な方向に進み、地球は全生物共存。ということにならないとも限りませんね。なってほしい。