カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2017.8.21 つれづれの記⑦

  

 【続き】

 

 [学校②]

小学生のときのこと。

 

・貴重な思い出

モノの貧しい時代だった。テレビもなかった。

3か4年生のころ(クラスは1学年1学級。みなで10数名)、『小学(3か4)年生』という「小学館」という出版社の月刊学習誌をクラスでとっていた。あくまで「学習」が名目。

ちなみにまだあるようです。のぞいたときだけそうだったのかもしれませんが、

「1年生」しか本屋さんにはなかったです。

漫画雑誌もあったが当時はまだ週刊はなく、月刊のみ。

それには必ず毎月、紙で(ときどきセロファンもまじっていた)作られた付録がついていた。完成品もあるが半完成品が主。

付録は、男の子や女の子の好きそう、喜びそうなものだ。出版社は「男女平等」に配慮してか、毎号ごと必ずどっちもつけていた。

「男女平等」はいいけれど、付録の中身たるや、「差別」ではないでしょうかが「区別」の決めつけのようなものがあり、現代ならクレームがつけられそうです(その昔、「男の子は…女の子は…」があたり前のようにとおっていた)。

で、肝心な話はこれから。

担任の先生が考えられたことだったのか。成長してから私は「何というステキなアイデア!」とよく思いだしては感心した。たぶん、こんな小さいときのことを覚えているのは、よほど強く心に感じたか、それがあって何度も思いだすことになったからでしょう(その担任が誰だったのかは思いだせない)。

1年間、その付録をためるのである。1年もあれば、付録はたっぷりたまる。クラスは全員で10数人。

学年の終わり。

公平なくじ引きで、空クジなし。全員になんらかの付録が当たるのだ。

それが嬉しかったことをよく覚えています。

なにが当たっても嬉しい(とはいっても、人形が当たると鉄砲が当たった女の子と交換した)。紙(セロファンもあり)なので、手荒に扱うと破れる。そっと触り、簡単な組み立てを行う。だんだん出来てゆくドキドキ感がたまらなかった。

 

・遊びの印象でいちばん強いのは、やはり野山を駆けめぐったこと。

前に、小刀で竹を切って釣竿つくることに触れましたが、「肥後の守」という小刀本一本あれば、当時の男の子(この場合は田舎)の好きな(いい換えれば、「選択」するほどのいろいろな遊びはなかった)遊びの道具、おもちゃはほとんど作れました。

チャンバラごっこ。剣(刀)は野山にあふれるようにありました。ちょっと茎が太い蘆のような草。それは採るのも加工も簡単だが、折れやすい。いちばんは木や竹。木は形のいい枝を使います。ちょっと力がいるけれど、適当な長さに切り、削る。ここに技術がいる。器用か不器用かの差があらわれます(器用な者は、鍔《つば》や鞘《さや》も工夫して追加。私は指をくわえた)。「鞍馬天狗」や「怪傑黒(紫)頭巾」は格好のいい剣でなければ見落ちがする。頭巾は家から母に見つからぬよう風呂敷を拝借した。できれば鮮やかな色がいい。

・ついでに。これは小刀とは関係ないですが、

面子(めんこ)。私のところでは「パッチン」と呼んでいました。ヒーローたちが描かれた丸や長四角のカードみたいな厚紙を下(たいていは地面)に打ちつけ、そのとき起こした風などの力で相手の面子を裏がえす。裏がえしたら、相手のそれをゲットできるというもの。うまく裏がえさせるよう、たとえば自分の片足を相手の面子すれすれにもってきて、風をできるだけ効率的に利用する。また、風をより強くして相手のを返すよう、逆に相手に返さえにくくするために、自分の面子にはロウソクをぬったり垂らして重くする。

 

・成長するにしたがって遊びは変わります。

小学校高学年から中学生になると、初めて「プラモデル」なるものを知り、それまで風や水、ゼンマイやゴムしか知らなかったけれど、モーターが新たに加わった。新たな動力の誕生! 

帳面(「ノート」じゃなくこう呼んでいた)の下敷きを切り抜いて羽根にし、モーターで回した。風が起きた。涼しい。ビックリしました。

これで終わるわけはない。プラモデルの車や船や戦車を解体し、モーターを取りだし、いろいろなものを作り、試しました。

が、私はここまでが限界でした。しかし、ここからラジオなどを分解。のちに学校でファラデーやボルトを習うより先に、「電気」を肌で感じ、理解している級友がいました。尊敬した。

 

・それが変わったことだからよく覚えているのですが、学校の裏の浅い川で、砂金探しをした。別に小遣い稼ぎのため、それに砂金がよく採れると有名になった川ではなかったのに…(小学生でも授業で「砂金」のことを習ったのだろうか)。

 

・3年生のときのこと。

父がどこで手に入れたのか、中古ながら子ども用の自転車を持ってきてくれた。練習していたとき、誤って川に落ちた(気がつけば病院のベッド)。母は腰を抜かした。間一髪、死ぬところだったらしい。

目が見えないということはどういうことかと気になり、座頭市をマネて、目をつむり棒で前を確かめながらあぜ道を歩いた。あぜ道に沿って1m 下を水路が流れていた。誤って落ちたこともあった。

55歳のとき木から落ち、また死ななかった。9歳のときを思いださざるをえなかった。私の場合、よほど「落ちる」ということに縁が深かかったのだろう。

生きておればいろいろあります。

 

 

・幼かったころの記憶はとても少ない。

覚えていることはよほど印象ぶかかったことに違いない。小学校の決められた場所を当番掃除しているとき、担任の先生から、「だれも見ていないからといって、サボってはダメ!」「人は陰ひなたがあってはいけない」というようなことを言われたことを(「道徳」という授業で覚えていることは何ひとつとしてないが)よく覚えている。

そのとき私はサボっていたのでしょう。サボってはいなかった気もするけれど、まあ子どもの掃除のことだから、どっちだっていいのですがは半世紀以上たっても忘れないのだから、先生のその言葉はよほど胸に響いたのだろう。

思えば小学校も中学校も、廊下にはいたるところ「走ってはいけない」が貼られていたし、教室にも標語がありました。なかに「嘘をつかない」もありました。いまは、これをそっくりそのまま国会議事堂にも、霞が関にも貼りたいと強く思いました。

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「森友」や「加計」にかかわった大臣、官僚は人間に「陰ひなた」はあっていいと思っているのだろうか。まあ「ひなた」ばかり歩いてきたら「陰」なんか見えるはずないか。陽のあたる人生のためにはウソをついてもいいと信じているのだろうか。あんまり多くウソをついてきたので何がホントで何がウソか、見わけもつかなくなっているのでしょう。

他人のことを言えた立場じゃありませんでした。(結婚したら)「幸せにします」と言ったはずなのに障害者になってしまい、「ウソついて、約束を破ってゴメン…」と謝るはめになった。

 

冬休みでも正月(元旦)には登校し、校長先生の話を聞き、年の始めを祝い、ミカンをもらって帰った。

1年の始めというものはめでたいものだと思った。

〈続く〉

 

 

                  ちりとてちん

 

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