カメキチの目
前回③は「幸福感」ということだった。
こんどは、「ひきこもり」を「プロセス」(=過程)としてみること、
「ひきこもり」の自分を、③でも少し触れた「ある自己」と「する自己」という二重の視点からとらえることの重要性が説かれていた。
こういう視点も私にはとても新鮮でした。とても考えさせられたです。
■プロセスとしてとらえる
固定的・静止的・名詞的な、動かないもの(止まっている状態)、として「ひきこもり」をみるのではなく、動くもの、動態的なものとして、動詞的にとらえるということ。
本書から引用:「次に確認すべきことは、状態ないし状態像という把握は、あくまで外からの目に「そのように映っている」ということにすぎず、当然ながら「病気」を意味しないということ。
さらには、ここが肝心なところですが、引きこもっている「いまここ」での状態は、それ以前に引きこもっていない状態が先行しているということ、このことの確認です。この確認ができれば、なんなく「プロセス」という視点を導きだすことができます。…
「ひきこもり」には、プロセスがあるということ、すなわち変化をはらんだ動的な現象が「ひきこもり」であるということです。…
「ひきこもり」という名詞的把握による状態像の固定化が起こると、次に「ひきこもり」状態に「ある人」と「ない人」とのあいだに分断線が引かれはじめます。そして、分断線に沿って一方の「ひきこもり」状態に「ある人」に、「社会的ひきこもり」というラベルが貼られます。ラベルを貼られた人たちは「あってはならない状態」に陥っている人たちとして一括りにされ、あるいは病気とみなされて治療の対象となり、あるいは異常とみなされて要支援の対象となり、再社会参加のためのプログラムを適用される対象となるのです。…
こうした「ひきこもり」という名詞的把握がもたらした、悲惨としか形容しようのない本人不在の事態を、本人主軸の等身大の現実像へと変えていくために必要なことの一つが、名詞的把握の動詞的把握への転換です。「ひきこもり」という言葉の使用を必要最小限にとどめ、可能なかぎり「引きこもる」「閉じこもる」「かきこもる」「こもる」…なんでもいい、プロセスという視野につながる言葉を用いることです。…」
ものごとを、「変化」や「推移」という移り変わりのなかでみることのたいせつさは、よくいわれる。
いわれなくても日々かんじることです。四季の自然風景はもちろん、自分の身体だって30を超えれば老化は進むばかり。
仏教でいう「無常」は簡単にいえば変わらぬものはないということなのでしょうが、心構えとしてみれば「すべてのものごとを動的にみよ」ということでありますね。
(いまシュンとしていても、そのうち笑う日がくるだろうと。逆もまた然り)
固定的、静止的な視点は、「ひきこもり」状態にある人に「ひきこもり」というレッテルを貼り、「自分とはちがう」と「分断」させる。垣根をつくってしまう。
プロセスという視点のたいせつさは、「ひきこもり」にとどまらない。
「社会の分断」をなくしていく糸口を私たちに与えてくれる。
(横道にそれてすみません)
「社会の分断」といえば、酷い銃乱射が連続するアメリカでの銃規制を叫ぶ人々と、「わが身は自分で守る」という人々との分断。ピョンチャンオリンピックでの「南北朝鮮」の姿を想わざるを得ません。
せっかく朝鮮半島で行われたのだから、同じ朝鮮民族が南北で分断されていることの悲惨さ、統一という悲願を(政治の次元での否定的な動向ばかりでなく《北の「美女軍団」など、どうでもよかった》)南北の選手さんの同朋としてお互いを思いやる姿、お互いをたたえ合うようすを(探してでも)伝えてほしかった(韓国の応援団が「美女軍団」と肩を組んでいるところ。政治的プロパガンダとは思っても、相いれない両国が、民衆レベルで手をとり合っている姿には感動しました)。
マスコミというのは、報道という本来の仕事を通じて、かけひき優先・お互いの腹のさぐりあいの政治では到底実現ふかのうな希望(南北統一)の灯をともせるきっかけをつくれると思うのですが…
■自己の二重性‐「ある自己」と「する自己」
自分がある(=いる)ということ。
何かをする(できる、もつ)ということ。
人間は実際には何かをして「存在」しているから、正確には二つが別々に、独立して在るのではない。
しかし、「ひきこもり」の問題を考えるにあたっては、どうしてもこのような視点を持たなければならない、と著者は述べる。
私も強くそう思いました。
本書から引用:「「存在論的ひきこもり」論の構築に向けての、もう一つの欠かすことのできない手続きがあります。
それは一個の人間を「ある自己」と「する自己」の二重性として理解するという視点を設けるということです。厳密に申せば、「ある自己」が基底にあり、その上に「する自己」がのっているという構造です。「する自己」が「ある自己」に支えられている関係と言ってもいいかと思います。
このことから引きこもることの動機および引きこもっている状態、さらには引きこもることの意味を説明するための重要な命題が導きだされます。
第一は、「する自己」がよく自己を発揮できるためには、「ある自己」が安定的でなければならないということ。…
第二は、「する自己」が縮小化された状態において「ある自己」が表面に露出するということ。…
引きこもることは、このような「する自己」からの撤退であり、社会的自己の放棄であり、社会的価値の喪失であることが理解できるでしょう」
そして、著者は言う。
「する自己」から解放されているのは、赤ちゃんと老人だけだと。
正確には病人やけが人、障害者なども。
もちろん現在でも、地球全体でみれば、あるいは歴史的にみれば、赤ちゃん老人など社会的弱者に温かい社会は少数です。
現代日本のように大半の人々が難なく食っていける生産力をもち、基本的人権の考えかたが根づいていればこそ。
そして、著者芹沢さんは「する自己」本位の人間観とそういう人間観を基礎にした社会にぜったいくみしたくないと。
本書から引用:「このような見方に立つと、二通りの人が、世の中で「する自己」から解放されていることがわかります。言うまでもなく、赤ちゃんと老人です。…
「ある自己」という視点を持たない、「する自己」本位の社会では、老人は(老人だけでなく障害者もまた)、「できなくなっていく」過程のどこかの地点で人間存在としての資格を失い、人間ではなくなるのであり、したがって無用な存在と化すという運命が待っています。赤ちゃんは…人間ではないという言わば優生主義の考え方に帰着してしまいます。
まして…若い人が「する自己」から撤退した状態に長いあいだとどまるということが、許容されるはずはありません。
私は、そうした「する自己」本位の人間観とそのような人間観を基礎にした社会に同調したくないし、追従したくないのです。…」