(※ 初めにお断りします。本からの引用文はすべて青字ですが、
これまでの記事のように【引用】は書きません。
引用文のなかの一部には赤字や太字のところもあります。
赤字や太字であっても、引用文か私の文章かは
お読みいただければわかるようにしました)
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■③戒律
出家という厳しい修行を積む僧侶に「戒律」(五つあります)は欠かせない。
最初は「不殺生戒」であり、「殺してはならない」ということ。
(これのみ書きます)
下の引用文に私はふるえるほどの感銘を受けました(ぜひ、お読みください)。
〈命が大切になるとき〉
神のような絶対者にも依拠せず、
自己決定の結果とも言えないような自分の生と存在には、
最初から根拠が欠けている、と私は先に述べた。
別に、大切な命と決まっているわけではないのである。
最初から命それ自体が大切なのではない。
それはある時点で大切なものになる。
いつか。自殺しないと決意したときである。
根拠もなく、苦しい生ではあるが、死なないで生きていくと、
理由なく決断したときである。
死も選択肢の内で、自殺していけない理由はないが、
あえて死なないと決意したとき、命は大切なものになる。…
自分が生まれてきてしまった存在であること、
それを他者(親などの大人)が育てるかどうかは、所詮恣意であることを、
我々はごく幼い頃から、意識の底で痛切に知っている。
幸運にも他人に「受け容れられ育てられた」経験が、
「自分の愛しさ」を保証する根幹である。…
つまり、自殺しないという決断は他者に由来し、
それによって我々は命の大切さを認識するのだ。…
というのは、仏教の戒は、禁止されているからそれを遵守するということではなく
そういうことをしまいと誓うことだからである。
すなわち、単に「殺してはならない」と決まっているから殺さない、のではなく、
戒律を学び、納得して「殺すまい」と誓い、
それを守ろうと修行する意志こそが重要で、これが仏教の戒のよりどころなのだ。
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「 最初から命それ自体が大切なのではない」
そもそも「命」という抽象的なものがポカっと宙に
浮いているわけではないのだ。
それぞれ名前を持つ(肉体を持ち《所有し》、なにかの行為する人
として)〇〇さんの「命」として具体的にそこにある
いる。
「自分が持つ(所有する)命だから自殺しようがしまいが勝手」という論理・理屈
に対しては、「命は尊い、だいじにしなければならない」という価値観は弱い。
(自殺を認めるということは他殺も認めることに容易につながり、「敵は殺しても
かまわない。戦争だから」の論理と違わない。「勝者が正義」なのだ)
「根拠もなく、苦しい生ではあるが、
死なないで生きていくと、
理由なく決断したときである」
「あえて死なないと決意したとき、
命は大切なものになる」
「決断」「決意」は、
(単に欲しい物を買うような、思った、決めた、選んだ軽いことではなく)
祈りを込めた「覚悟」のような深いものだと思った。
「自殺しないという決断は他者に由来し、
それによって我々は命の大切さを認識するのだ」
幼いころ、よほどの悪戯をしたときだけ強く叱られ、こう言われた。
「(お前は)橋の下で拾ってきた」「ウチの子じゃない」
オマケに家のなかに入れないよう、入り口ひき戸につっかえ棒を立てかけられた。
親からそう怒鳴られたのは(どんな悪をはたらいたかは忘れていても)そのときの
親の声のトーンまで忘れられない。
よほどの悪戯をしない限りは愛を受けていたのだろう。
(「愛を受けていた」とはいっても、ふつうの親がわが子に示すふつうの愛情と
いささかも変わらない)