カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2020.7.31 「戒律」→あえて死なないと決意する

      カメキチの目

 

 

 

(※ 初めにお断りします。本からの引用文はすべて青字ですが、

   これまでの記事のように【引用】は書きません。 

   引用文のなかの一部には字や字のところもあります。   

   赤字や字であっても、引用文か私の文章かは

   お読みいただければわかるようにしました) 

   

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■③戒律

 

出家という厳しい修行を積む僧侶に「戒律」(五つあります)は欠かせない。

最初は「不殺生戒」であり、「殺してはならない」ということ。

(これのみ書きます)

 

下の引用文に私はふるえるほどの感銘を受けました(ぜひ、お読みください)。

 

 〈命が大切になるとき〉

神のような絶対者にも依拠せず、

自己決定の結果とも言えないような自分の生と存在には、

最初から根拠が欠けている、と私は先に述べた。

 

別に、大切な命と決まっているわけではないのである。

最初から命それ自体が大切なのではない。

それはある時点で大切なものになる。

いつか。自殺しないと決意したときである。

根拠もなく、苦しい生ではあるが、死なないで生きていくと、

理由なく決断したときである。

死も選択肢の内で、自殺していけない理由はないが、

あえて死なないと決意したとき、命は大切なものになる。

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自分が生まれてきてしまった存在であること、

それを他者(親などの大人)が育てるかどうかは、所詮恣意であることを、

我々はごく幼い頃から、意識の底で痛切に知っている。

幸運にも他人に「受け容れられ育てられた」経験が、

「自分の愛しさ」を保証する根幹である。…

 

つまり、自殺しないという決断は他者に由来し、

それによって我々は命の大切さを認識するのだ。

 

というのは、仏教の戒は、禁止されているからそれを遵守するということではなく

そういうことをしまいと誓うことだからである。

すなわち、単に「殺してはならない」と決まっているから殺さない、のではなく、

戒律を学び、納得して「殺すまい」と誓い、

それを守ろうと修行する意志こそが重要で、これが仏教の戒のよりどころなのだ。

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 最初から命それ自体が大切なのではない

 そもそも「命」という抽象的なものがポカっと宙に

浮いているわけではないのだ。

 それぞれ名前を持つ(肉体を持ち《所有し》、なにかの行為する人

として)〇〇さんの「命」として具体的にそこにある

いる。

「自分が持つ(所有する)命だから自殺しようがしまいが勝手」という論理・理屈

に対しては、「命は尊い、だいじにしなければならない」という価値観は弱い。

(自殺を認めるということは他殺も認めることに容易につながり、「敵は殺しても

かまわない。戦争だから」の論理と違わない。「勝者が正義」なのだ)

 

根拠もなく、苦しい生ではあるが、

死なないで生きていくと、

理由なく決断したときである

あえて死なないと決意したとき、

命は大切なものになる

「決断」「決意」は、

(単に欲しい物を買うような、思った、決めた、選んだ軽いことではなく)

祈りを込めた「覚悟」のような深いものだと思った。

 

自殺しないという決断は他者に由来し、

それによって我々は命の大切さを認識するのだ

幼いころ、よほどの悪戯をしたときだけ強く叱られ、こう言われた。

「(お前は)橋の下で拾ってきた」「ウチの子じゃない」

オマケに家のなかに入れないよう、入り口ひき戸につっかえ棒を立てかけられた。

親からそう怒鳴られたのは(どんな悪をはたらいたかは忘れていても)そのときの

親の声のトーンまで忘れられない。

よほどの悪戯をしない限りは愛を受けていたのだろう

(「愛を受けていた」とはいっても、ふつうの親がわが子に示すふつうの愛情と

いささかも変わらない)

 

 

 

 

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                           ちりとてちん

 

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