『自分のなかに歴史をよむ』 阿部勤也
(グーグル画像より)
という古い新書を読んだ。
「自分のなか」と「歴史」という言葉に惹かれたのだった。
(阿部勤也さんは有名な歴史学者で、ご専門は中世のヨーロッパ)
中世のヨーロッパには興味はないので阿部さんの著作を読んだことはなかったが、
この本は著者がなんでどのようにして中世のヨーロッパを研究をするようになった
かを、子ども時代にさかのぼり自伝的に語りかけるよう書かれていた。
なんでも修道院、尼さんが身近なキリスト教的な環境で育ったという偶然だった
とのこと。
(生意気だったころ、「歴史に残るような発明・発見は、○○がやったとなっているが△△だった
かもしれない。早かれ遅かれ誰かがやったに違いない。それが歴史の必然…」と考えていた。
それはいまも変わらない。そうだけど屁にもならぬつまらない考えだと、思うようになった)
ある人が、なぜ今あるようにあるのか?なぜそういうことをしているのか?
(したのか?する羽目になったのか?)ということに興味・関心がある私としては、
この本の話はおもしろかった。
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自分の存在を歴史的にみる、ということ
【引用】
「〈過去との絆〉
身のまわりに起こったことすべてと自分との関係を、いつごろからどのように気付いてきたのかを
思い出すことからはじまります。…
それはいわば私を歴史的に掘り起こす試みでもあります。
過去の自分の行為はただの駄々をこねた子どもであったにすぎないのですが、それを現在整理すると、
私の体験が経験になってゆく重要な過程であったというふうに整理されるのです。
…
ひとつは、自分のなかを深く深く掘ってゆく作業です。…
自分の内奥を掘り起こしながら、同時にそれを《大いなる時間》のなかに位置づけていくこと
にあるのです」
(注:「」、〈〉、太字はこちらでしました)
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学校で「歴史」を学ぶ。その意義は、
時間と社会のなかでしか生きざるをえない人間の「よりよい生き方は何?」
ということにあるのだろう。
そうならば、学校の「歴史」はそれとして学び、学校も世の中も教えてはくれない
自分の生き方も学ばなければいけない気がする。
「歴史」は何も社会、世の中のことだけじゃないのだから。
懐かしいからといって「昔をふり返る」だけじゃなくて、自分の過去・体験を
人生一回限りのそれを、社会という大いなる空間と《大いなる時間》の中に
位置づけれてみるのはたいせつなこと。
(こういうことを老いてからすると懐かしさばかりが大きくなるけれど、老いる前にやるといろいろ
人生の発見、気づきがあり、生きるヒントになるかもしれない。
歳をとり、つまり長く生きていると、若いときには思わなかった、気づかなかったことを感じることが
よくあって、おもしろい。「歴史」というのもその一つ。
「おもしろい」と自分だけで楽しむのはもったいなく、こうしてブログで書く《自分の子どもや孫に
言えばいいのに…とお思いでしょうが、こういうちょっとエラそうな話は恥ずかしくてできない》)
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ほかに思った三つのこと。
① 小・中学生のあいだは、先生の話すことは何でもハイハイすなおに聞いた。
大きくなるに従ってだんだん疑うようになり、「それホンマ?」と心で問うように
なった。
「歴史的事実」といわれていても(のび太のように「どこでもドア」でタイムスリップでき)
自分の目で確かめたわけではないので、「大人社会」に疑いぶかくなっていた私は
どうしても疑いたくなった。
(疑いぶかくなってからは、「教科書にはそう書かれていた」「テレビはそういっていた」
「世間ではそういわれている」と、「」付きにしている《そのくせ、疑いたくないことは疑わず
信じたいことは信じている。勝手なヤツ、ご都合主義者とお思いでしょう。
しかし、私は自分の勝手、矛盾には目を瞑るのです)
② 歴史を試みに「バーチャル」ととらえてみると、昔ばなしや神話のような
フィクションと共通するところもあると気づき、頭が混乱した。
(フィクションなら、昔ばなしや世界各地にある創造神話のほうが断然おもしろくてすばらしい。
NHKの大河ドラマの下敷きは歴史的事実とされているものだろうが、物語として飾られなければ
つまらない。おもしろくない)
③ 学校で「歴史」を学ぶ目的は、過去から続く現在までの社会の姿を知り、
これからどんな未来を目ざすかを考えることだろう。
そして、自分なりの「理想(あって欲しい姿、あるべき姿)」を抱く。
「理想」はフィクション。昔ばなしや神話と同じかもしれない。
(でもそれでいい、いやそれだからこそいいのだろう)