『国会議員を精神分析する』(水島広子・著)という本を読んだ。
(前回の記事とシンクロしたかのようなもので、ビックリした)
題名をみたときはハッとしたが、直感で借りていた。
投票率にあらわれているように(私もそうであるように)「国会議員」ときくだけで
横暴、やりほうだいの自民党を連想する。
借りたけど、国会議員の精神を分析してもしかたないので読まないで返そう
としたが、いちおうページのはじめだけパラパラめくっていたら、
「自己愛パーソナリティー」「人格障害」という言葉が出てき、これに惹きこまれ
読みだした。
読むと新鮮な切り口がとてもおもしろく、最後までやめられなくなった。
(本は2003年出版で古く、おわりに石原慎太郎も出てくるが、彼らの「自己愛パーソナリティー」に
この19年の経過はまったく関係ない。
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選挙演説をきかされるたびに、先ずウンザリし、ついで否が応でも「厚顔無恥」
という言葉が思いおこされ、最後に首をかしげる。
「人間、あそこまで自分で自分を持ちあげる、美化できるもんだろうか?…
恥ずかしいと感じないのだろうか?…」
この本で、「センセイ(先生)」と呼ばれてよろこんでいる「政治家」への
新たな見かたを知った。
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自分を愛する(「自己愛」といえば言いすぎという感じがするけど、「自己肯定感」)ことは
誰でも生きていくうえで絶対かかせない。
「多様性」ということがよくいわれる。
「生きものの多様性」ではなく、生きものとして人間は多様性に富んでおり、
一人ひとりへのそのあらわれが「個性」であり、「個性を愛する」ということが
「自分を愛する」ことなのだと思う。
「誰も」が自分と同じように「自己愛」を持っているという真実、事実がわかる
という、この決定的ともいえる重大なことが、「人格障害」といわれるほどの
強烈な「自己愛パーソナリティー」の持ち主にはわからない、感じられないらしい
その強烈な「自己愛パーソナリティー」の持ち主に、多くの自民党議員がいる。
本のはじめの方に、アメリカ精神医学会の診断基準であるDSM‐Ⅳの
「自己愛性人格障害」が引用されている。
(「自己愛性人格障害」とは、「自分だけが特別に重要な人間だという感覚が強すぎ、
他人の気持ちや事情などは取るに足らないものだというふうに考える」)
これに当てはまる自民党議員がなんと多いことか!
「どのように機能するかというのは、周りとのバランスで決まる。
同じパーソナリティーの持ち主が、ある環境においては機能不全を起こすけれども
別の環境ではかえって活躍するということもある」と述べ、「障害」と呼ぶほど強力な
「自己愛」と「相性の良い世界が「政界」」という。
とても強く感じたたいせつと思われること4点のみ以下に述べます。
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① (これは「自己愛」とは直接は関係ないと思われる話です)
著者と同じように民主党には「市民派」といわれるリベラルな議員がいる。
この人たちは、自分と意見・考えが異なっても、「リベラル」ということで
「はい、はい」とよく聞きがち、寛容になりがち。
けれど、市民派、リベラルな人たちの目ざすのは、
「「多様な価値観を尊重する」社会を作ることが目的なのであって、
多様な議員の意見を尊重することが最終目標ではないはず」
主張したいことは、「自己愛」の権化、塊、結晶のごとき自民党議員のように
押しとおさなければならない。
そういう努力を惜しんではならない。
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② 公正な選挙であるためには、選挙制度そのものがより民主的でなければ
ならないのに、日本のそれは
「選挙そのものが、自己愛パーソナリティーの持ち主でなければ成功しないような
仕組み(つまり「小選挙区制」)になっている」
「ヨーロッパの国のような比例代表制が中心ではない」
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③ 本の最後のほう「不安の時代に好まれる政治家像」という項目で、
「人々はなぜヒトラーに魅せられたか?」とドイツのことが記されていた。
誇大な自己像を持ち、それを他人にも信じこませるためのパフォーマンスを工夫した」
「人格障害」といわれほど強い「自己愛パーソナリティー」の持ち主をなぜ、
当時のドイツ国民は支持したのか?
著者は「不安の時代の恐ろしさ」と答える。
「失業率が高まり、不安や不満が高まってくると、どこかにその突破口を求めたくなる。
人間は誰でも、原因や解決法のわからないモヤモヤとしたストレスにさらされ続けるものを好まない。
「あそこに原因があるのだ」と認識する、というのはストレスマネジメントの第一歩である」
そして、「ユダヤ人大虐殺」というジェノサイド、ふつうの心を持っておれば
絶対あり得ないことがナチスの手によって行われた。
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④ これも最後のほうに述べられていた話。
(政治の選択にまよったさい、とても参考になると思った)
「「保守」対「革新」ではなく「共感の欠如」対「協調」」
先のヒトラーに関連して、「石原慎太郎待望論」ということで述べられていた。
石原慎太郎は「やはりなかなかの自己愛パーソナリティー度である。…
(→他者への共感度の欠如)
障害者への差別発言を批判されたときの石原慎太郎の言葉。
「自分は差別するつもりはないのに、相手に劣等感があるから差別だと感じた」
「差別を感じる相手が悪い」
要するにどんな場合でも、石原は絶対に自分が正しいのである。
なぜなら、自分がどう感じ、どう思い、どう考えているかは他ならぬ自分自身が
いちばんよくわかっているし、その「自分は差別するつもりはない」のに
「相手に劣等感があるから差別だと感じた」わけという。
したがって「差別を感じる相手が悪い」というわけだ。
(この論法では「差別」というのは客観的な実態、事実ではなく、
個人の「感じかた」「感受性」の問題だというわけか)
彼のような人間は、他人への「共感」(「共感」という形の「想像」)に欠けるので、
「私としては…」という自分だけの思い、主観だけがだいじ、問題になる。
世間、他人から批判されるような言動も「そう感じ、思い、考える」相手が悪い、
いけないのだ。
そうか! 「差別するつもりはない」のか。
(たとえがよくないけれど石原慎太郎は、犯罪でいえば、多くの人がそう感じ、思い、考えていた
とは知らなんだ、ましてや法律になっていたとは…というようなもので「過失」だろうか?
法律上は「過失」だとしても、「差別するつもりはない」ではすまされない。
でも己の問題として深く考えてみると、「つもりはない(なかった)」という弁解、言いわけを
私はよくしていることに気づく。
「自己愛パーソナリティー度」は自民党議員や石原慎太郎ほど高いとは思わないが、五十歩百歩だと
自覚しなくてはいけない)
ちりとてちん