カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.9.5 「障害」とは? 「能力」とは?

障害」とは何らかの「能力」に支障をきたすことだともいえる。

 

しかし、そもそも「能力」とは何だろうか?

それが支障をきたした障害とは?

(この本を読んでいて、そんな疑問が湧きあがった。

私は平衡障害を負うまでは、ふつうに《人なみに》走れたり跳べた。が、いまではできない。

自動車も運転できたが、視界は揺れるし二重に見える障害もあるので事故を起こす前にやめた)

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個人モデルから社会モデル障害に対する根本的な見方で、よくいわれる

個人モデルは障がいはその障がい当事者の皮膚の内側にあり、

その当事者が努力したり、治療・リハビリによって治すべきものととらえる。

社会モデルとはその逆で障がいは当事者の皮膚の外側にあるもので、

当事者が感じる不便や生きにくさは、多数派である「健常者」向けにしか設計されていない社会の側に

責任があるとする考え方を指します

 

(ここでは引用していませんが、天畠さんは障がい」を個人モデルとしてとらえ

自分が重度障がい者になった14歳のときてから

努力したり、治療・リハビリによって治すべきもの」としていた。

 

20年目(ということは天畠さんもう34歳)のある日の主治医の診断で、

今の医学であなたを治療する方法はありません」と言われたけれど、

(それまでの血のにじむような努力、苦労にかかわらず)すんなりと受け入れられた

といわれる。そればかりか、

それは障がい者となって20年が過ぎ、障がいが治らなくても介助を利用しながら

あらゆる可能性に挑戦できる、という自信がついてきたことが背景にあった」と。

 

私なら絶対、「悔しい…この20年間をどうしてくれる」と血のにじむような

努力と苦労を嘆き、主治医に当たり散らしたに違いないが、天畠さんは違う。

34歳の天畠さんはすでに、障害を「個人モデル」ではなく「社会モデル」として

とらえ、つまり、自分の内側に閉じこもるのではなく外側、社会に向かって開いて

おられる。

(天畠さんの中で個人モデルから社会モデル〉という対する認識の変化はこれほど大きな、

決定的なものだった。

しかし、社会の壁は厚い。自分の力だけではどうにもならないことがあまりに多く、大きな困難を

前にして、一時はどん底に落ち込んだような感情にとらわれることが何度もあるけれど、

しばらくすると落ち着いて前向きになる。

どうこの危機を乗りこえようか、新しい地点に立とうかと、冷静に考える。

すると天畠さんの生き方に惹かれて力になる人々が現れたりして「何とかなる」のだった

 

こうして書いていて突然に、あらためて「前向き」ということを思った。

天畠さんは「障がいが治らなくても介助を利用しながらあらゆる可能性に挑戦

される。

その障害に有効な介助制度が現在は社会的に整備されていないのなら、

まずは可能なところから作っていき、拡充、充実させていく。

(そういう姿勢を本のあちこちから強く感じた。こういう姿勢を「前向き」というのだろう)

 

         


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能力は、決して一人の人間の内側にあるだけはありません

それを他者との関係のなかでどう発揮できるか、そうした関係性のうえに存在する能力

間違いなくあるのです

〈弱い〉主体としてのあり方も受け入れる

他者とかかわりながら生きていく以上、「健常者」であっても発話が可能な障がい者であっても、

基本はみんな同じです。

誰もが、自分以外の他者の影響を受け、ときに”妥協”しながら、日々自己決定をしていると言える

のではないでしょうか

 

すごい、すばらしいことがいわれていると思った。

 

ふつう「能力」といったとき(何かの「集団」「社会」でない限り、「体力」や「創造力」や

「知力」など)個人の力を、それ自体としていう。

(つまり、ある個人の属性として能力」という確かなものがあり、ずば抜けて優れていると

「世界記録」や「名《作》品」や「発見・発明」になるわけだ)

しかし、その能力」がみんな(他の人たち)に喜び、称賛してもらえないなら

どうなのだろう?

(「眠っていた能力が開花」とか「宝の持ち腐れ」という言葉があるけれど、能力」にしろ

「宝」にしろ発見され磨かれ使われ、そのことがみんなの喜び、幸せにつながらなくてはならない

思う

 

他者とかかわりながら生きていく以上、…基本はみんな同じ」ならば、

その人の「能力」はその人の属性なのだから、その人自身とかしか言いようがなく

「個性」のようなものではなかろうか。

他者とかかわりながら生きていく」、つまり社会で生きてゆく中では、

何らかの能力」の有無、多寡などたいしたものではない。

 

誰もが、自分以外の他者の影響を受け、ときに”妥協”しながら、

日々自己決定をしている」のだから。

 

 

 

 

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                              ちりとてちん

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