今日は「目をなくしたカバ」という話です。
話のおおすじ
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カバが川を渡っているとき、片方の目をなくした。エライこっちゃと必死で探した。
見つからないと永遠に片目になってしまう。
カバの慌てぶり、必死の行動を見ていた仲間の動物たちは心配して「少し休んだら」と言った。
が、カバは聞く耳を持たず一心不乱に探し続けた。
しかし、いつまでも目は見つからず、疲れ果ててついにその場へ座り込んだ。
カバが川を動き回って探すのをやめると、しばらくして水が澄み、目を見つけることが出来た。
よかった、よかった!
(グーグル画像より)
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著者は述べる。
「止まる」ことは「正しい」
…
「ぼんやりできる時間」(を持つ)…
今や私たちはスマートフォンをいじって、そういう時間をつぶしている。
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(必要に迫られたこと、生活に欠かせないことであっても)慌てて急ぎ、無暗、無我夢中に
行動しては、(それでうまく行くこともあるかもしれないが)寓話のカバのような
羽目に陥るおそれがある。
急いては、焦れば、自分(周囲をふくめ)が見えなくなり、事を仕損じてしまう。
立ち「止ま」らなければ、見えてこない。
(「まわり道」、「迂回」、「寄り道」であってもいい。
人生時間はそれほど短くはない)
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災害に遭遇した時のように、一瞬の躊躇も許されない切迫した状況、
状態では即決断しなければならないことが起きるけれど、
そんなことは長い人生であるかないか、あっても稀だろう。
(私は災害《事故》に遭って障害者となった。
事故自体は「一瞬の躊躇も許されない切迫した状況」ではなく、単に自分の注意不足、自己責任。
事故に遭って初めて、「生きていればこういうことがあるんだ…」としみじみ感じた。
事故に遭ったときは意識がなく、入院してからもしばらくは意識レベルが低下していたので、
このカバのようには動き回れなかった。
が、生き残った。目もなくさずにすんだ。
それ以降、「生きている」というより「生かされている」という実感を持つようになった)
「一瞬の躊躇も許されない切迫した状況」でない限り、
立ち「止ま」り、行く末などを時々はじっくり考えてみることが、科学技術
(科学技術は現代では、「信じるか否か」で本来は対立するはずの宗教みたいになった)文明に
追いまわされて生きている日本人には求められていると思う。
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この寓話から、私は「無用の用」という言葉を思い出した。
忙しく生きている人は「スピード」・「効率」がいちばんだから、
「ぼんやりできる時間」は無駄、無用以外の何ものでもない。
しかし、立ち「止ま」り、「人生」という広く深く大きなモノサシで見れば
「ぼんやりできる時間」ほど豊かなものはない。
カバは立ち「止ま」り、ぼんやりしたからこそ、泥(濁りのもと)は川底に沈み
水は澄んだ。
澄んで透きとおったからこそ、目を見つけることができたのだった。
今日の俳句
人間の 海鼠となりて 冬籠る 寺田寅彦