カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2023.12.19 目をなくしたカバ

今日は「目をなくしたカバ」という話です。

 

 

話のおおすじ 

   ↓

カバが川を渡っているとき、片方の目をなくした。エライこっちゃと必死で探した。

見つからないと永遠に片目になってしまう。

カバの慌てぶり、必死の行動を見ていた仲間の動物たちは心配して「少し休んだら」と言った。

が、カバは聞く耳を持たず一心不乱に探し続けた。

しかし、いつまでも目は見つからず、疲れ果ててついにその場へ座り込んだ。

 

カバが川を動き回って探すのをやめると、しばらくして水が澄み、目を見つけることが出来た。

よかった、よかった!

 

         コロンビアで大繁殖のカバ、特定外来種リスト入り間近|日本人コーヒー生産者が語るコロンビア|World Voice|ニューズウィーク日本版 さん

             (グーグル画像より)

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著者は述べる。

止まる」ことは「正しい」

ぼんやりできる時間(を持つ)

今や私たちはスマートフォンをいじって、そういう時間をつぶしている。

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(必要に迫られたこと、生活に欠かせないことであっても)慌てて急ぎ、無暗、無我夢中に

行動しては、(それでうまく行くこともあるかもしれないが)寓話のカバのような

羽目に陥るおそれがある。

 

急いては、焦れば、自分(周囲をふくめ)が見えなくなり、事を仕損じてしまう。

 

立ち「止ま」らなければ、見えてこない。

(「まわり道」、「迂回」、「寄り道」であってもいい。

人生時間はそれほど短くはない)

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災害に遭遇した時のように、一瞬の躊躇も許されない切迫した状況、

状態では即決断しなければならないことが起きるけれど、

そんなことは長い人生であるかないか、あっても稀だろう。

 

(私は災害事故》に遭って障害者となった

事故自体は「一瞬の躊躇も許されない切迫した状況」ではなく、単に自分の注意不足、自己責任。

事故に遭って初めて、「生きていればこういうことがあるんだ…」としみじみ感じた。

事故に遭ったときは意識がなく、入院してからもしばらくは意識レベルが低下していたので

このカバのようには動き回れなかった。

が、生き残った。目もなくさずにすんだ。

 

それ以降、「生きている」というより「生かされている」という実感を持つようになった)

 

「一瞬の躊躇も許されない切迫した状況」でない限り、

立ち「止ま」り、行く末などを時々はじっくり考えてみることが、科学技術

(科学技術は現代では、「信じるか否か」で本来は対立するはずの宗教みたいになった文明に

追いまわされて生きている日本人には求められていると思う。

 

          


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この寓話から、私は「無用の用」という言葉を思い出した。

 

忙しく生きている人は「スピード」・「効率」がいちばんだから、

ぼんやりできる時間」は無駄、無用以外の何ものでもない。

しかし、立ち「止ま」り、「人生」という広く深く大きなモノサシで見れば

ぼんやりできる時間」ほど豊かなものはない。

 

カバは立ち「止ま」り、ぼんやりしたからこそ、泥濁りのもと)は川底に沈み

水は澄んだ。

澄んで透きとおったからこそ、目を見つけることができたのだった。

 

 

 

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                             ちりとてちん

今日の俳句

人間の 海鼠となりて 冬籠る  寺田寅彦

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