『ものの見方が変わる 座右の寓話』 戸田智弘 ・著
(グーグル画像より)
『イソップ童話』のような多くの人が知っている有名な寓話、小話類の
一般的な解釈に、著者独自の視点が加わったもの。
もとから「寓話」といわれるものは人生の教訓めいたものだけど、
著者の視野の深さを感じるものがあった。
(私がそう感じたもののいくつかを書きます)
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① 目の見えない人たちが象を触る。
が、人によって触る部分が異なるので、その部分からの感覚、印象だけで
その正体(全体像)を判断しようとする話。
大人の盲人と象(の話)
視界を広げ、多面的に物事をとらえよう
→「部分の総和は必ずしも全体にはならない」
全体的な視野での観察とは、日本語で言うところの「イメージ」みたいなものだ。
イメージとは心の中に描き出される像で、全体的な感じや印象を意味する。
(→モンタージュ写真と似顔絵の違い)
(全体を見ず部分を見るのは、それぞれが)真実を表現る方法が異なっているだけであり、
真実が異なっているわけではない
→異なる信念を持つ者たちが互いを尊重して共存するための原理を示している
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「群盲象を撫でる(評す)」というもの。
(ウェブマガジン「モチラボ」より)
「部分の総和は必ずしも全体にはならない」けれど、
「真実を表現る方法が異なっているだけであり、
真実が異なっているわけではない」
つまり、部分部分だけについていうなら「真実」なのだ。
(パッチワークやジグソーパズルの部分、破片一つひとつは「事実」で、
パッチワークやジグソーパズルならば「事実の総和」が意味をなし、「真実」だと考えられる。
しかし「群盲…」の場合、どうだろうか。
上の絵では6人が協力すれば象という正解にいたる。
「真実」に行きつくのだけど、人間は主観にこだわりやすいことを
ウクライナとロシア、パレスチナとイスラエルに感じ、やり切れない…)
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自然界と同じような「客観的な真実」は全体的な、完璧なものだろうが、
人間は主観的な生きものなので、「主観的な真実」というものが人間界には
あるのだろう。
だから、「異なる信念(「主観的な真実」)を持つ者たちが互いを尊重して
共存するための原理を示している」話、人生の教訓にもなるわけだ。
〈オマケ〉
トイレに『くりかえし読みたい名俳句1000』という文庫本を置いてときどき読んでいます。
今たまたまふっと思いついたので、これからここで一句だけ最後に書こうと思いました。
おい癌め 酌みかわさうぜ 秋の酒 江國 茂