カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2017.7.1 『人間臨終考』①

                                                  カメキチの目

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 森達也さんという人のお名前だけは聞き、聞いたきっかけの印象がよかったので、いつかこの人の作品(映画とか本)に接したかった。

 最近、その方の『人間臨終考』という、人の死にざまを書いた本を読んだ。おもしろくて笑った。

 

 この本は、石川五右衛門から始まり、ブッダガガーリン、ノーベル、キュリー夫人坂本竜馬、はたまた文化大革命江青(毛首席の婦人)など世界の有名人が、彼らが生きていたときのエピソード(だいたいは史実といわれているもの)から、死ぬときはおそらくこんなことを思い、こんな状況だったのではないかと著者が想像を逞しくして書いたものだ。

 いわゆるパロディ。まちがっても伝記を期待してはいけない。

 そんな歴史に残る有名人が、スマホやネットなど科学技術が発達した現代日本に、(現代の日本でなく、それぞれが活躍した時代・国の場合もあります)タイムトンネルに乗ったかのように時間をこえて登場する。

 著者がいくら想像力を駆使しても、著者の目の現代・日本人という限界は免れないけれど、彼らの臨終という死に際に焦点をあて(一般的な歴史的評価がさまざまあるのはしかたないけれど)、彼らの生きざま(いや、死にざま)に学ぶものがあれば学ぼうというものである。

 ときどき著者(または変身した作者)が登場し、その歴史上の有名人とやり取りする。そこにスマホAKB48も現れ、なんど私はクスッとしたことだろう。

 この作品は立派なパロディなのだが、パロディも真面目に描けば(「真面目」ということ=笑わないことではない)「史実」といわれているものごとが怪しくなっていき、パロディのほうが真実に近いのかも…と思えた。

 

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2回にわたって記事にしたい。

 一つ目

 森達也さんはオウム真理教の麻原をけっして擁護しているのではないけれど、麻原への国民多数の憎悪の感情は理解できても(私も大多数の人々と同じように「許せない」と思っている)、裁判で死刑判決が出されるまでの一連の手続き、流れの中で、最大限、彼の真意・動機(なんでサリン事件を企てたのかなど)を探るための努力を司法をはじめ麻原に関わった多くの行政機関がしなかった(しても「いい加減」だった)ことを問う。

 権力は過剰なほど国民に「ソンタク」し、一刻も迅速・スムーズに麻原を死刑にしたかった。

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 本の中ではナチスアイヒマンユダヤ人の大量虐殺を考え、実行責任者の立場にあったとされる人)が出てくる。

1964年になって逃亡していたアルゼンチンに隠れていたところをイスラエルの当局がみつけ、アルゼンチンの国家主権おかまいなしに、イスラエルに連行し、まるでショーのように形式的な裁判をすませアイヒマンは「残虐きわまる人間」。ユダヤの人々、イスラエル国民の「憎悪の対象」「悪の権化」でなくてはいけなかったのだ)、死刑とした。

 

1930代のドイツのそのコト。1960年代のイスラエルのそのコト。

 と現代日本

 熱狂的にヒトラーを支持したドイツ国民とアイヒマンを憎悪したイスラエル国民。

 と麻原を崇めたオウムの信者。麻原の死刑は当然、「せいせいした」とした多数の日本国民。

私もそのひとりだったと認めざるをえません。

 

 誰かを血祭りにあげて、己は無罪放免ですます。これですべてのコトを終える。

 一般の人々は直接には何も関わらなかった。だから一人ひとりの国民に「責任」はない。責任の取りようはない。

 

 なくても、自分の問題として、自分ならばどうするか?どうしたか?と想像はできる。

 それが「歴史から学ぶ」ということではないかと森達也さんは、世界の歴上のさまざまな有名人を登場させて、徹底的に考える。

 

                   ちりとてちん

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