きょうは③について。
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【引用】
「③〈階級格差をどう縮小するか?〉
まず近代産業の基幹産業、たとえば製鉄、自動車や電子部品の製造などを、個人企業が担うことは
不可能である。旧中間階級が手がけることができ、大企業と対等に競争できるのは、
精密加工や工芸品の製造、小売業やサービス業、農林漁業など一部に限られる。…
自営業者の減少によって、失われたものは多い。
地域の商店街で廃業が相次ぎ、シャッター通りが増え、買い物が不便になった。
…
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③〈階級格差をどう縮小するか?〉と述べる前に、
前記事の②で書いたように、著者は「「総中流」はなぜ受け入れられたのか」
と問い、「「中流」=良きもの」という幻想がふりまかれ、
「理想としての「中流」」論が多くの国民に信奉されたからだという。
(それもあるがそれだけではない)
人々は「自分の生活水準が社会全体のなかでどのような位置にあるのかを
知らなかった。…学歴も職業も異なる人々と比べて、自分の生活水準が高いのか
低いのか、判断がつかなかった。…だから、「あなたは”中“だ」といわれても、
これに疑問ももたなかった」という。
私は「あなたは”中“だ」と誰からも言われたことはないが、言われたら
うなずいていたと思う。
(このごろのニュースでは毎日のように遊興費のため詐欺犯罪が報じられているけれど、
同じ犯罪でも、貧しい生活、すさんだ環境にあって《決して遊興のためでなく》よりマシな人並みの
生活を送りたくて、家族を養うために他人のお金に手をつけるのとは、私は犯罪の質が違うと思う。
昔の「ネズミ小僧」、いまの『雲霧仁左衛門』を想った)
「上・中・下」などランク付けや差別化が好きな人間、そうでない(嫌いな)者、
そもそもそういうこと自体が目に入らない人と、人間はさまざま(それも「個性」の
一つといえるのだろうが)だが、いま問題としているのは個性ではなく生活意識
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意識しなくても生きている限りは生活しているのだから、「生活実態」がある。
「中」を理想とは思わないが、国民みんなが自分の生活実態を「中」と思える
ことはすばらしい。
国民みんなが酷い「生活格差」を感じないですむ日本になればすばらしい。
(だけど、それはむずかしそう。
資本主義社会では「階級格差」は不可避なので、〈どう縮小するか?〉を問わなければならない)
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〈階級格差をどう縮小するか?〉
それが問題だ。
基幹産業を担う大企業と、その大企業を支える手足の存在、下請け、孫請けなどの
中小企業。
日用品など人々の生活に密着したものをつくる中小企業と小売などのサービス業。
そして、「自分と子孫が生存するため食う」という生きものとしての私たちの
いのちを支える食べ物を供給すてくれる第一次産業といわれる農林漁業。
それらさまざまな仕事で社会が成りたち、みんなが生きてゆける。
だから、「仕事」と呼ばれるものはどんなものも尊い、「尊い」ものにランクは
つけられない。
(と、ヤクザや暴力団など「社会のダニ」と呼ばれるもの以外は尊いと、単純素朴に思っていた)
だけど(前記事に書いたように)コロナ禍は人間、社会にとって何がだいじな仕事
なのかを明らかにしてくれた。
その一つに「エッセンシャルワーク(ワーカー)」というのがある。
それがなくては人間の生活が、社会が回っていかないという必需労働だ。
(真反対に、なくてもいい『ない方がいいとさえ私は考える》「ブルシットジョブ」という
あえて和訳すれば「クソどうでもいい仕事」があることも気づかせてくれた。
現代の金満・金融資本主義では「クソどうでもいい仕事」にたずさわる者が富み、なくてはならない
「エッセンシャルワーク」に従事する人たちが貧しい。
まともな生活感覚からは不思議な現実)
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著者、橋本さんは最後に結論づける。
さまざまな仕事で社会が成りたっているのだから、みんなが同じ仕事をする
わけにはいかず、仕事の中身により特別な努力、能力が必要とされるものもあり、
報酬に多少は差が生まれてもしかたないけれど、格差は感じないほどなくせる。
きっと、国がその気になれば
「すべての人に「中流」の生活水準を保障することはできる」
(国をその気にさせるのは私たち国民だ)