その朝、いつもの簡単掃除を終えるとテレビニュースが聞こえてきた。
自衛隊の大規模な訓練、演習の報道だった。
訓練、演習じたいは珍しくない。
「行われた」と事実だけが簡単につたえられます。
私の県内の演習場では、ときには実弾の誤射、砲弾の落下など事故がおきます。
事故があるとまず自治体の首長が遺憾の意を表明し、つぎに自衛隊の幹部がお詫びする。
住民の「またか…」の嘆きが、嘆きのままいつまでも続けばいいですが…
(人間のやることだから不慮の事故はさけられない。被弾したら「ああ、ウンが悪かった…」と観念する
ほかないのでしょうか?)
取りかえしのつかないことが起こり、嘆きのため息が悲しみの涙にならなければいいですが…
でも、けさは違った。「トピックス」のように詳しかった。
みてきいて、わが耳をうたがった。
ふたつ書きます。
ひとつ目は「民間協力」、ふたつ目は「予備自衛官」。
---------ー
①「民間協力」
「二度と戦争はしない。
そのために相手国を信頼する。
信頼するなら武器はいらないので、もたない」
そんな崇高な理念をだいて出発した戦後の日本。
しかし…
多くの人々が反対したのに、当時の政権は国民の声をふみにじり「自衛隊」の前身
「警察予備隊」を創設した。
「警察予備隊」とは軍隊にむけて警察をバージョンアップしたようなものだろうか?
正式な軍隊は日本国憲法で禁じられもてないので、「日本軍」とは命名できない。
「名より実」で、権力としてはイザというとき国家にはむかうヤカラ、民衆を確実に抑えるため、
警察より力(暴力)をもった軍隊がほしかったので、呼び名なんてどうでもよかったと思います。
ところで、現代は現実的には過去のような大規模戦争が行える時代ではなくなった。
(大国の核保有の理由は「戦争の抑止力」)。
なのになぜ、軍隊は各国からなくならないのだろうか?
(中米のコスタリカは軍隊がない。「自衛隊」という軍隊もない)
紛争、内戦、それらへの関与など規模の小さい戦争はなくならないからだろうか?
私にはそれが「世界の七不思議」の一つだ。
で、その不思議を考えたら二つのことに思いあたった。
① 戦争をするには武器がいるので武器をつくる。それで儲ける。
それだけではなく、自分は参加せず(徴兵をまぬかれ)戦争をするよう仕むけ、煽ることにより
儲ける。
→武器商人、戦争商人たち。彼らから多額の儲けの一部をもらう政治屋たち
(国内の内乱、紛争ということは独裁中国だけでなく、民主主義日本でもあり得ます。
民主主義が危うくなれば、民主主義をもとめる国民と国権が衝突。
→そのときが《自衛隊の》出番)
② 権力の行使・統治支配の原則は「国民の分断、分裂」にあることは、トランプのアメリカが見事に
しめしてくれた。
警察や軍隊が権力の手足になっているのは世界中の多くの国で共通している。
力(暴力)を直接、むき出しにふるうのは警察、軍隊の(キャリア、エリートではなく)ヒラ。
ヒラの彼らがキャリア、エリートから命令されて、民主主義をもとめるヒラの国民にこん棒で
なぐりかかり、ときには銃をむける(香港やミャンマーだけでなく、世界のいたるところで…)。
警察や軍隊という組織は、新しくはいったヒラにてっていして「上意下達」をたたき込み、
「洗脳」する。
(「洗脳」がどれほど恐ろしいものかは、「一億総玉砕」とつき進んだ昔の日本社会だけでなく
現代でもオウム真理教の悲惨な事件があります)
その「洗脳」によってだけではなく、最前線で取りしまる警官、隊員たちはデモや集会に参加する人々が
同じ庶民のヒラでありながらもちょっと違ってみえ、そのちょっとの違いが憎悪の感情となり、同じ庶民
なのにヒラがヒラを襲うという悲劇がおこる。一種の「近親憎悪」みたいに思える。
(トランプが大統領にあったとき、心あたりがないのに黄色の人が黒人に暴力をうけることがあった)
「自衛隊」と命名され、管轄官庁「防衛庁」が「防衛省」に昇格しても徴兵制は
しかれず、アメリカの戦争に間接的に協力しても自らの手を血でけがすことは
なかった。
私が若いときはあの戦争の記憶もまだ生々しかったし、すぐ朝鮮戦争もあったし、ベトナム戦争の
さなかということもあってか、入隊する若者は少なかった(よく募集があった)。
「自衛隊にはいるとタダで大型の車や重機の運転免許がとれます。免許を取得してからすぐやめても
かまいません」
私の小さな集落でも、顔見知りの中学卒業生が何人も入隊し、1、2年後には「免許をとってやめた」と
風のたよりに聞いた。
そのころ『自衛隊に入ろう』というアングラソング(?)があった。
よかったら聴いてみてください)
それどころか長い時間がたち、すっかり国民にとけこんだ(かのようだ)。
国民の災害救助で大活躍をしてくれるし、いのちを助けてくれるヒーローだ。
(自然災害からの「自衛」にてっした「災害救助隊」と名前を変えてほしい)
本来の任務はあい変らず敵国からの防衛にあることをニュースは思いださせた。
もう、正々堂々と「民間協力」をいってよい(となった)ようだ。
そのニュースは報じていた。
日本全国にわたる大規模演習らしく、戦車など重くて大きくかさばるものも
あるから、輸送しようとすれば自衛隊所有の輸送車両だけでは時間がかかる。
実際の戦争では、速さも戦闘能力の重要な要因の一つとなるくらいのことは素人でもわかります。
そこで、民間に頼んだ。
国から頼まれて、民間は断れますか?
日本は「独裁」でなく「民主主義主義」国家だからたて前では断れるのだろう。イヤなら断ればいい。
でも、国から依頼された仕事、確実な商売。頼まれて断るところはほとんどないに違いない。
(それどころか、頼まれる「機会の平等」を保障する民主主義にてらして「入札」にしてほしいと、
国と癒着した大企業いがいの企業《中小企業》は思うにちがいない)
ふだんでも、平和なはずの日本で兵士(いや隊員)が隊列をなして歩いているのを
見たり、軍用車が公道を走っているのを目にするとき、私は異様な気もちに
おそわれる。
番組は、「大輸送」の現場にでくわした一般市民の「なにごとだろう?」という
心配、不安の声を紹介していた。
そして、国民にまったく知らされることなく(そもそも国民の税金で成りたっている)
自衛隊が国民に知られぬようにと隠れてゴソゴソするのをやめ、必要な情報は
公開しなければならないとの専門家の声もつたえていた。
-----
②「予備自衛官」
(広い意味ではこれも「民間協力」のひとつ)
テレビ映像は東北の部隊での演習・訓練風景だった。
ある「予備自衛官」はまだ若い銀行員だった。
その人が、同僚とおぼしき人々と戦闘服に身をかため、銃の射撃訓練をしていた。
私は鳥肌がたった。射撃の銀行員氏たちはたんたんと発砲していた。
番組によると、会社員たちだけでなく学生もいるとのことだった。
「予備自衛官」は会社の社員教育、学生の〇〇体験などの一環で、日本は個人を尊重する社会なので
イヤなら断ればいいのだろうか。
でも断れば昇進、進級などに影響するかも