カメキチの目
じつは、これを夕べ更新するつもりでした。
ところが、21時半前に少し揺れを感じたと思って、テレビをかけたらビックリ仰天。なんと、熊本に大地震。
熊本は二人しかいない親友のうちひとりが住んでいます。そのときは携帯電話がつながらず心配でしたが、朝、彼の元気な声を聞いてほっ!
友はよかったのですが、甚大な被害は時間を追うごとに広がっています。人ごとではないのに、人ごとになり、無力・非力を感じる…
「日日是好日」が皮肉となった。
朝。
起きてすぐは、“普通人”でも身体がまだ固く、アクビとともに両手を伸ばしているだろうに。障害の身はなおさらだ。
それなのに、「ゲンチョウが飛んでいる!」と、ひと足先に起きたサイが言う。
「はぁ、ゲンチョウ?『幻聴』。幻聴が飛ぶ?」
だいぶ以前、ウチには「旧暦カレンダー」があると書いたが、そこに記されていたゲンチョウと判明した。「玄鳥」。つまりツバメだった。
ツバメなら飛ぶわな。よかったよかった。
漢字はいい。ときどき今みたいに惑わされるけれど。そういえば、「眩惑」という言葉には「玄」があり、私が惑ったのは当然だったのかもしれません。
きょうは久々に禅語。
「日日是好日(ニチニチコレコウニチ)」
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床の掛けじくなどによく書かれている。
この言葉を私は、「毎日まいにちいい日だね」とか「きょうという日は二度とこないのだから、好い日だと思おう」と(軽く)考えていたが、深かった。
また、玄侑さんという禅僧兼作家の知恵をお借りします。“知恵”は拝借しても、なるべく自分の言葉で書きます。
日日というのは、毎日ということではなく、“時間”ということ。
その時間というものは、水の流れのようなもの。
生きるとは、そこを泳いでいるようなもの。
で、二つのことがいえる。
①泳いでいれば、ちょっと先くらいはわかるけれど、それもある程度まで。もっと先。いわゆる「未来」とか「将来」、遠い先はわかろうはずがない。世の中の姿は予測ついても、自分(個人)のことはわからない。
そのことをよく自覚し、覚悟して生きていかなければならない。
きょうはきのうの続きではない。あすはきょうの続きではないのだ。
きょうはきょう。一回きり。それだけ。
②「好日」というのは、読んで字のごとく好い日である。「好」は、「悪」の反対の「善」ではありません。「晴れ」でもありません。
その日の天気が雨でも「好い雨の日」であり、嵐でも「好い嵐の日」なのである。
たとえば、美人・イケメンなら誰でも好(す)かれ、彼・彼女がいるできるものではない。
雨や嵐のような容貌でも、好きと言ってくれる人がいる。私は言ってもらったことはありません。
「アバタもエクボ」といいますが、親のわが子への愛情みたいに絶対的なのが、「好」なのです。
で、結論。
過去にとらわれて悶々、悔やんだり、まだ来ぬ未来に期待したり、心配したりしてはいけない。
過去や未来の接点が「今」・「きょう」なのだ。
「障害もって初めてわかったこと。いっぱいある」
そのノリで、「雨には雨の楽しみがある」と言ってみるものの、やっぱり晴れがいい。