カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2016.4.15 日日是好日

 

                                                  カメキチの目

              f:id:kame710:20150902114233j:plain

   

 

 

 

    

 じつは、これを夕べ更新するつもりでした。

 ところが、21時半前に少し揺れを感じたと思って、テレビをかけたらビックリ仰天。なんと、熊本に大地震

 熊本は二人しかいない親友のうちひとりが住んでいます。そのときは携帯電話がつながらず心配でしたが、朝、彼の元気な声を聞いてほっ!

 友はよかったのですが、甚大な被害は時間を追うごとに広がっています。人ごとではないのに、人ごとになり、無力・非力を感じる…

日日是好日」が皮肉となった。

 

 朝。

 起きてすぐは、“普通人”でも身体がまだ固く、アクビとともに両手を伸ばしているだろうに。障害の身はなおさらだ。

 それなのに、「ゲンチョウが飛んでいる!」と、ひと足先に起きたサイが言う。

 「はぁ、ゲンチョウ?『幻聴』。幻聴が飛ぶ?」

 だいぶ以前、ウチには「旧暦カレンダー」があると書いたが、そこに記されていたゲンチョウと判明した。「玄鳥」。つまりツバメだった。

                   f:id:kame710:20160409162258g:plain

 ツバメなら飛ぶわな。よかったよかった。 

 漢字はいい。ときどき今みたいに惑わされるけれど。そういえば、「眩惑」という言葉には「玄」があり、私が惑ったのは当然だったのかもしれません。

 

  きょうは久々に禅語。

 

日日是好日ニチニチコレコウニチ)」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 床の掛けじくなどによく書かれている。

 この言葉を私は、「毎日まいにちいい日だね」とか「きょうという日は二度とこないのだから、好い日だと思おう」と(軽く)考えていたが、深かった。

また、玄侑さんという禅僧兼作家の知恵をお借りします。“知恵”は拝借しても、なるべく自分の言葉で書きます。

 

 日日というのは、毎日ということではなく、“時間”ということ。

 その時間というものは、水の流れのようなもの。

 生きるとは、そこを泳いでいるようなもの。

 

 で、二つのことがいえる。

①泳いでいれば、ちょっと先くらいはわかるけれど、それもある程度まで。もっと先。いわゆる「未来」とか「将来」、遠い先はわかろうはずがない。世の中の姿は予測ついても、自分(個人)のことはわからない。

 そのことをよく自覚し、覚悟して生きていかなければならない。

 きょうはきのうの続きではない。あすはきょうの続きではないのだ。

 きょうはきょう。一回きり。それだけ。

 

②「好日」というのは、読んで字のごとく好い日である。「好」は、「悪」の反対の「善」ではありません。「晴れ」でもありません。

 その日の天気が雨でも「好い雨の日」であり、嵐でも「好い嵐の日」なのである。

 たとえば、美人・イケメンなら誰でも好(す)かれ、彼・彼女がいるできるものではない。

 雨や嵐のような容貌でも、好きと言ってくれる人がいる。私は言ってもらったことはありません。

「アバタもエクボ」といいますが、親のわが子への愛情みたいに絶対的なのが、「好」なのです。

 

 で、結論。

 過去にとらわれて悶々、悔やんだり、まだ来ぬ未来に期待したり、心配したりしてはいけない。

 過去や未来の接点が「今」・「きょう」なのだ。

 

障害もって初めてわかったこと。いっぱいある」

 そのノリで、「雨には雨の楽しみがある」と言ってみるものの、やっぱり晴れがいい。

 

                    ちりとてちん

<