カメキチの目
ふたたび、自分にとってのブログのことを書こう。
いや、「ふたたび」ではない。前に触れたことあるから、みたびです。
隠居老人の日常、行動はだいたい決まっている。
変化に乏しく、おもしろ味も少ない。
ところが、しばらく前から小さな変化がみられるようになった。
「〇〇さん。このごろ更新がないね。どうされたんだろう。なにかあったんだろうか?」
「△△さん。■■と書いておられた。なるほどね」
ブログは、相手になってくださっている人の存在あればこそのことなのだが、みなさんそれぞれの個性に応えるような、すべての方に満足してもらえるようなものは書けない。
しかし、「フ~ン…。あまり興味ないが、さわりくらいは読んでもいいか。どれ、読んでやるとするか」と思う気もちくらい起きてもらえるようなものを書きたい。
努力嫌いですが、そういう努力はしてもいいと思っています。
で、(自分で言うのもなんですが)努力しました。しています(それは隠居の身で、働いていないからできることではありますが)。
ブログを始めるとき、私本人はまちがいなく人なみの「努力」はした。
が、いま思えば「ひとり相撲」だった。
その頃は、同じことをクドクド書いて…とか、回りくどいんだよね…とか、何が言いたいの?…とか、よく評された。
「チクショウ!今に見とれ」というふうには奮闘しなかったが、そのうち評され、文句をあまり言われなくなった。
それどころか、サイは私の努力、成果を、少しでも多くの方に紹介したい、見てもらいたいと『はてなブログ』のやり方をいろいろ調べ、アドバイスしてくれた。
その甲斐あって今があるのだが、お読みくださってほんとうにありがとうございます私のブログの世話を焼いている中で、ミイラ取りがミイラになり、彼女もブログに魅せられた。
で、初めに述べた小さな変化が起きたのだ。
ブログのよさは人によりさまざまなのだろうが、私のいちばんは、世界の広さを知ったことである。裏返せば、自分の小ささ、ちっぽけさを知ったこと。
たとえば、こんどの大地震。思いの深さは同じでも、行動を含め、いろいろあるんだなぁー、こんなにいっぱいの人々が心配し、気を配っておられることを知り、とっても嬉しかった。
東北大震災のときもそうだったが、災害はこれほど深刻でも、人の輪・環・和はスゴいと思った。
災害が起き、それがひどければひどいだけ人の結びつきが広がり深くなるが、それがいちおう終息、落ち着くと…とよくいわれますが、それはそれでよいと私は思います。
多くの数限りない人々がそのとき、一つことに心を寄せていること。そういう事実は(現実はたえられないような辛さ、悲惨が起きていても)未来への希望、人間の真実を感じさせてくれます。
世界は広いのだ。
ということは、自分の知らない、感じることもない多様な世界がいっぱいある。
ところが、いっぱい知り感じたくても、自分の限界を感じてアクセスを閉ざしてしまうことがよくあります。たとえばリンクがはってあったとき、ステキな音楽を聴いたり動画をみたりしたくても、ほとんどクリックしたことがないのです。‐すみません。
読者のみなさんの中には、その方との“縁”で義理みたいに続いているのもあるけれど、今の自分には興味・関心がなくても、先のことはわからない、と思っている。
ですから、そのうち興味・関心がわくかもしれません。“待つ”ということのたいせつは、子育てに限らないと思う。
「わからない」ということが、すばらしい。
「わからない」からこそ、すばらしい。
私は不器用な人間なので、現状が精いっぱい。これ以上のやりくりは無理かなと思っています。
いろいろいっぱいの話、情報の処理にこの頭がついていけそうにありません。
が、みなさん。ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。