カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2019.4 .19 トカゲの貧しい世界

        カメキチの目

 

(前回、『夢よりも深い覚醒へ』という本から「偽ソフィーの選択」という記事を書いたばかりですがそれを①とし、きょうは②です) 

 

 私は、東北大震災、3.11の直接の被害者ではないので、被害に遭った方々の言葉にならない辛さ、苦難を実感できない。

 しかし、想像してみる。

 同じ目に自分が遭ったら… 大津波に家族や親しい人の誰かが流され、わが家がなくなり、原発事故で故郷を追われたら…

 

 自分が遭わなかったのは、「たまたま」に過ぎない。

 遭ったのも遭わなかったのも、必然性はない。

 同じめに遭遇したとしても、それぞれの体験は違う。災害の受け方も、受けとめ方も。

 

(初めにこんなこと書いたのは、「トカゲの貧しい世界」という項目で、著者大澤さんが述べておられることが強く感じられたからです)

 

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 ハイデガーという哲学者は学校で名前を聞いたくらいで、老いたいまになってまた聞くことがあろうとは夢にも思わなかった。 

 哲学を習った方ならハイデガーの、「トカゲは貧しい世界をもつ」はよく聞く話なのだろうか。私は初めてだった。

 

 著者は、ハイデガーは世界に存在するものを便宜上、①「人間」②「動物(生命)」③「無生物」と三つに分け、

①人間は世界をつくる、②トカゲ(動物)はわずかに世界をもつ、③石ころ(無生物)は世界をもたないとしたことを初めに紹介する。

 そして、(著者は)続ける。

 

 人は、あの破局的な(著者は東北大震災の悲劇を「破局的」という最大級の言葉をもってしか表現できないとする)被害を事後になってから、つまり起きてしまってから、

「今にして思えば、起きることであった気がする」「起きてしまったことが必然であったような思いがする」と言う。

 ところが被害が起きる事前には、「10数mの大津波、それが原因となって原発事故が起きることはないだろう」と想っていた。

(世界的にあれほど有名なノートルダム寺院が火災に遭うなんて想いませんでした。考えれば「有名」かどうかなんて人間の都合で、「火事」には関係ない。教科書にも出ていたワールドトレードセンタービル に飛行機が突っこんだ9.11、だれが想像できたでしょう)

 

 この「事後」と「事前」に、哲学者らしく深い目を向けられる。そして、先のトカゲが出てくる。

 

 モノゴトは、事後からみれば「必然」であった気がしてくるが、事前には、さまざまな可能性(「偶有性」)を想いはしても、日常をあれこれ心配していたら生きてゆけないので(忘れ)、ほとんどの人はだいたいは楽観的に先(未来、将来)をみようとする(というより想像しようとはしないのがほとんど)

 無事にモノゴトが進めば(終われば)それでいいが、こんどのような破局がひき起こされてきたとき、事前には、客観的にはたくさんの選択肢(さまざまな可能性《偶有性》)があっても、私たち(主体)たちは(突きつめれば)一つしか選べない。

(自分の生きているとき、大津波が起き、原発事故まで起きようとは想定しなかった。通りいっぺんの対策しか選ばなかった)

 そのことを「過去」と呼ぶとするならば、過去というもののあり方が、トカゲによく似ているという。

 

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トカゲの世界は、(人間に比して)わずかだということ。

トカゲの世界は貧しいということ。

(トカゲは人間のように広く深くは考えられない。そもそも「考える」ということはない) 

と、著者の言葉、文章を解釈したこっちが間違っていたらいけないので本文から。

【引用】 

トカゲは貧しい世界をもつ

・人間と動物(生命)と無生物との関係→①石(無生物的な物)は世界をもたない②トカゲ(動物)はわずかに世界をもつ‐貧しい世界をもつ③人間は世界を作る…

必然的にして偶有的

・ポイントは、事後から過去を振り返ると、われわれは、奇妙に矛盾した感覚をもつ、という点である。…

・だが、その破局が起きてしまえば‐つまり破局の事後に立てば‐、破局自体が現実的になるだけではなく、破局が、もともと‐過去においても‐ずっと現実的であって、いつ起きても不思議ではないような仕方でずっと存在していた、ということに気づかされるのであった。事前にあっては、破局は、「実際には起こりそうもないこと」として見えていたのに、事後からは、「いつでも起こりうる鬼気迫る可能性」としてずっと存在していたように見えてくるのだ。…

・このように、事前から事後へと視点をシフトさせたとき、破局のような決定的な出来事の様相が、まったく異なったものに見えてくる。それに伴って、事後の視点には、破局までの過程が、不可避のこととして、つまり必然として見えてくるのである。…

・それゆえ、破局までの過程は、必然であったと見えているにもかかわらず‐あるいはそうであればこそ‐同時に、偶有的なもの(他でもありえた)としても現われるのだ。

過去の憂鬱

・「高い堤防の建設」は、切迫した緊急の要請であるとは自覚されていなかった。

こう考えると、「過去」というもののあり方が、ハイデガーのトカゲといささか似ていることに気づくだろう。ハイデガーによると)トカゲは、自分自身の世界の貧しさを知っている。同様に、過去もまた、自分自身が、「他なる可能性」を実現できずにいることを、その意味では、自分が不十分で貧しいことを、知っている。

しかし、繰り返せば、過去は、自分がその「他なる可能性を知っている」というそのこと自体を、自覚していない。したがって、その「他なる可能性を知っている」という事実は、自分自身では説明できない憂鬱のようなものとして存在することになる。たとえば、「もっと高い堤防を築かなければ」という無意識の認識は、漠然とした不安‐そうしなければならないことがわかっているのに実際には果たされていないことを原因とする不安‐という形式で、存在していたのだ。…

 

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 私は仕事で剪定をしているときに木から落ち、障害を負うはめになった。

事後」がこんなことになる可能性はまったく想定していなかった。

(せめてヘルメットを被っていたら…)

 当時は(今もか)トカゲになっていたのだろう。

 

                       

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                               ちりとてちん

 

 

 

 

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