『ルポ貧困女子』 飯島裕子著という本を読んだ。
これも愛読の爽風上々さんのブログで紹介されていたもの。
爽風邪上々さんもいわれていたけれど、とてもいい本だった。わかりやすかった。
うくまとめておられるのでぜひお読みください。
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一読するなり、けっして他人ごとではない、と強く思った。
自分にも娘がいるけれど、ウンがわるかったら「貧困女子」になっていたかも…と
強く感じた。
「ウン」の良し悪しのことで、社会の進歩ということを思った。
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私は自分が障害を負ったのはウンが悪かったとあきめている(「あきらめる」というのは「諦める」
ではなく「明らめる」。つまり、長く生きておればいろいろあるのが人生の真理だと受けいれる。
ついでに、「家族でなく自分であってよかった」「この程度でよかった」と痛感)。
人間は社会がないと生きていけないが、個人がうまれたときから、そして生きていくなかで出あう、
避けられないウンの悪さを社会がどれだけ救えるか、緩和できるかが「社会の進歩」ではないか。
本を読みあらためて、生まれた時代・社会に流され、揉まれ、翻弄されるほかない
女性個人の姿を痛感した。
男性だって同じだが、男性中心社会のなかで、女性はよりひどい。
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個人の人生をつぶすほど重くのしかかる社会の問題を、ウンが「あった」とか
「なかった」ですませては絶対いけない。
昨年の12月8日は、いまでいうなら「テロ」のような真珠湾攻撃から節目の80年だった。
戦争という過酷な時代。
私だって朝ドラ『カムカム…』の主人公安子と結婚したばかりに戦争にとられ、殺された夫のように、
たとえ女性だったとしても空襲でやき殺された安子の母や祖母のようになっていたかもしれない。
(「戦争」をもちだすのは極端な話だろうか)
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本を読んでいちばん強く感じたことは、上に書いたような個人的な「ウン」と
社会的な「分断」。
以下、本の最後のほうだけ引用します。
【引用】
「6章 女性の分断
〈分断の1985年〉
バブル崩壊以降、派遣という働き方は急速に広まっていく…労働者派遣法が成立したのは
男女雇用機会均等法が1985年のことだ。
派遣法成立によって、「一般職」の派遣への置き換えは徐々に始まっており、
「男性並みに働く総合職女性」と「非正規貧困女性」という二極分化の萌芽が、
この時すでに存在していたということができるだろう。
〈一般職削減がもたらしたもの〉
こうして1985年の均等法成立後、…女性の分断は、一般職削減等に伴う正規雇用の減少と
派遣法成立及び改正に伴う非正規雇用の増加を背景に拡大していくことになる。
〈募る孤立感〉
(著者が取材した多くの女性のなかの一人の言葉)「所属感が欲しいと思うことがあります。
短大中退後、自分の所属先と言えるようなものがずっとない状態が続いています。
無職でも結婚していれば主婦として家庭があるし、学生なら学校があるでしょう。
でもアラフォー近くて未婚で無職だと、自分の所属先はどこにもない。
世の中から一人取り残されてしまったように感じるんです」
…
〈分断を超えて繋がるには〉
“男女不平等”が当たり前だった時代、…(社会の女性差別はきびしく、そういう現状を変えようと
ウーマンリブの運動が起こった)女同士というだけで、繋がることができる部分があった…
その後、女性が働くための施策が整備され、結婚・出産後も働き続ける道を含め、
さまざまな選択が可能になったかに見える。
一方ですでに多数を占めていた女性の非正規雇用率は増加を続け、
3人に1人の女性が貧困という現実がある。
正規/非正規、既婚/未婚、子どもの有無、総合職/一般職など、
女性の間にはさまざまな立場による分断が存在する。
それは本人が望んだものばかりではなく、やむを得ざる状況の中で選んでいることもある。
現在積極的に進められている女性活躍推進の動きは、こうした女性間に拡がる格差を固定化し、
分断の谷間をさらに深いものにしている。
(注:「」〈〉(黒字)、赤字赤字はこちらでしました)
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「分断」、つまり分けて断つ。
力が弱い民衆たちが手をつなげないよう、お互いがお互いを憎みあうようにさまざまな工夫を凝らす。
支配者、権力者にとって、分断がどれほど(鉄則というくらい)たいせつなものかは
学校の歴史教科書にも書かれている。
弱い立場にある者たちは(小さな違いは違いとして認めあいながら)先にある大きな目的達成のために
ともに手をつなぎ、たずさえることがいかにたいせつであることだろう。
(「たいせつ」というより、強い立場にある者たちに抗うためにはそれしかないと思う)
強い立場にある者たちがいつまでも「強い立場に」あろうとするなら、弱い立場にある者たちを
分断させればいいだけだ。弱い立場にある者たち同士が争わせれば、ケンカさせれば。
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〈分断を超えて繋がるには〉
本の最後の二行、「現在積極的に進められている女性活躍推進の動きは、
こうした女性間に拡がる格差を固定化し、分断の谷間をさらに深いものに…」
その後にあった、「福音となる政策も、他方においては、分断を広げ、
格差を固定化させる道具ともなり得ることを忘れてはならない」を読み、
物事はふかく見なければならない、考えなければならないと、自分の軽率さを
強く強く感じた。
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(「女性問題」に限らず「○○差別撤廃」「○○支援」ときくと)
一見したところ「よきこと」であり「進歩」に見えがちだけど(事実、そうだが)
その施策を長い目、また広い視野で見なければならないと思った。
「馬の鼻先に人参…」であってはならないと思った。
「鼻先に人参…」の対象にされた馬は、目さきの利得にくらみやすい。
その「人参」は誰でもすぐに見やぶるような粗末なつくりではダメだけど、国の法制度のような
精巧な「目くらまし」なら、簡単にダマせる。
誰も信じさせられる。私もコロッと信じさせられた。