(また、連続朝ドラ『舞いあがれ』から)
最近の場面が印象にのこった。
(いまでは主人公舞ちゃんは幼友達の貴司くんと夫婦となり、プライベートでも幸せな日々を
すごしている)
ある風の強い日、停電になり、蠟燭をともして貴司くんと肩をならべていたとき、
彼がゆらめく仄かな蝋燭のともしびを見ながら、
「暗くて遠いところは見通せないけど、足元のような近くはよう見えんねんで」と
(いう意味のことを)言った。
いっしょに見ていたツレが、「貴司くん、いいことを言うね」とつぶやいた。
同じように見ていても、ときどきボーっとするこちらは「いいこと」に
気がつかなかったが、彼女に聞いて後で深くうなずいた。
そして、大好きな禅言「脚下照顧」を連想した。
(グーグル画像より)
自分の足元を見つめて丁寧に生きる大切さに気づかせる言葉だ。
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障害を負ってからは、とぼとぼヨロヨロ、杖をつき、人の3、4倍も時間をかけて
歩くようになった。
それまでは、歩けば10分ですむところでもバイクで移動していたから、
春になって梅や桜など目だつ樹木、タンポポやツクシなどメジャーな草花には
気がついてもオオイヌノフグリ、ホトケノザ、ヒメオドリコソウなどは
目に入らなかった。
見よう、感じよう、知ろうとしなければその存在さえ気づかない足元の世界。
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桜には目が向かっても、オオイヌノフグリには目が留まらない。
(目だつもの流行のものは、テレビやネットなどメディアが「知れ!」と《知りたくなくても》
押しつけ《無理にでも見せようとし》、こっちの欲望を刺激する。
目だたないもの、ひっそりとしたものは、意識して見ようとしなければ見えてこない)
ずっと前、NHK・Eテレの連続ものの趣味番組で、街でも見つけられる雑草という、
とても楽しい番組をやっていた。
そこで、100円ショップで手にはいるスマホ用ルーペを本体に取り付けるだけで
すばらしいマクロ写真が撮れることを知ったが、その美しさには驚いた。
雑草の美しさを感じること。
これも立派な「脚下照顧」。
(オマケの話:
進行した状態のガンが見つかって死の宣告を受けたり、不治の病、難病などで苦しむ人々や、
そんな個人の人生での出来事ではないが、社会的な問題の当事者となって苦しむ人々がいる。
そういう人々のことを知ると、自分が同じ、似たような立場になったらどうする?とよく想う。
そんな立場の本人や家族など最愛の人を描いた本《小説、ドキュメントなど》やテレビドラマには、
現実の辛さ苦悩に押しつぶされないために、ユーモアで笑いとばしたり、それまでは気づかなかった
身近な物事に気づき新鮮な目を向けるようになって幸せを感じるという話がよく出てくる。
「脚下照顧」 とても大事なことだと思う)