暮れのある日、地域(関西圏)テレビニュースが伝えていた。
不動産業界によれば、ことしの新規マンションの売りあげが大好調だったという。
好調なのはいいけれど、なんと平均価格が6000万円台と聞いておどろいた。
だれが買うのだろう?
「6000万円」。自分の耳をうたがいネットで調べたらまちがっていなかった。
「マンションはもはや一般庶民にとっては高嶺の花といってもよい存在になっている」と
ヤフーニュースにあった。
6000は大阪の価格。神戸とか京都にくると5000とか4000になるらしい。
(「どっちにしろ高すぎる」と一般庶民感覚の私は思う)。
また、もっとおそい暮れには恒例の、全国各地の迎春風景、活気にあふれた街の
ようすが映っていた。
(コロナ前ほどではないけれど)東京の「アメ横」市場では肉、魚介類などを求め、
万札が飛びかう。デパートなどの豪華なおせちも人気だとのこと。
その一方で、NPOの生活困窮者支援ボランティア活動で食品セットをもらった
中年男性が、テレビ局のインタビューにこたえ「これで正月を迎えられます。
ほんとうにありがたいです」と感激の弁。
中立な立場の報道は、さまざまな人々の暮れのようすを伝えていた。
報道する記者さんの胸のうちはきっと複雑にちがいない。
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社会の現実は(人によって感じかた思いかた考えかたは多様だとおもうけれど)私はやっぱり
こんなの、おかしい、ヘン、まちがっていると感じてしかたない。
地震など自然災害どころではない、コロナどころではない。
(自然災害もコロナ禍も金さえあれば予防対策もいろいろとれるから、格差と無関係ではないが、
いちおう人間みな動物・生きものとして分けへだてなく平等にそれらの作用、悪さを受ける)
想えば、6000万円もするマンションも豪華なおせち料理も、それらを作り、
用意・供給する人々にとっては仕事、労働だ。
仕事だから、買う人、お客さまの喜ぶ姿、笑顔を想像し、いいものを建てたい
おいしいものをつくりたい、と労働にはげむ。
でも、できたら「私でも住み」「私でも買って食べ」たいと、ときには思うかも
しれない。
「これが私の仕事」と割りきって働いていても、自分のつくったものが庶民には買ってもらえないと
想うと、時にはむなしさを覚えるのでは…と思った。私なら確実にそう。
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さきに書いたように、一人ひとり人間はちがうし、好みもいろいろある。
人間は自分だけの個性があり、多様が自然だけれど、現代社会のこれほどの
生活・暮らしの差の存在は不自然だと思う。
(どうだこうだという不平不満・批判非難が、とくにアメリカを筆頭とする自由主義諸国からあっても
中国は、習近平政権は「格差是正」「みんな残らず富裕になる」と言わざるをえなくなり、現に
《いまのところスローガンだけであっても》言いだしている。
こういう中国の姿勢をみていると、単に理念だけで「民主主義」「自由・平等」と叫ぶことのむなしさ
欺瞞を感じる)
人間も動物、生きものだから、生まれついての違い、性差や能力差など
個人の力ではどうしようもないものがあるけれど(また、生きてゆくなかでもいろいろ
あり、なかには同じく自分の力では解決のできないことがいっぱい出てくる)智慧を出しあって
社会をつくり生きているのだから、社会の力でおかしい、ヘン、まちがっていると
考えるものは変えていかなければならないと思う。
(ロールズという有名《といっても私は知らなかった》な現代の思想家は、人間にとっては「能力」も
その人にとってたまたま備わっていたものだから「偶然の産物」であり、「能力」は社会の共有の財産と
とらえなければならないという)
私が若いころの日本の世の中は、「中流社会」とよくいわれた。
ようするに、社会にいまほどの格差はなく、国民の暮しに差はあっても
おしなべて「ほどほど」だったわけだ。