カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2022.6.10 「中流」かぁ…

日本銀行のトップ、黒田総裁が、これぐらいだったら庶民は値上げしても

たいして痛み感じずガマンするだろうというような発言をし、

大きなヒンシュクを買っている。

あまりに明快でわかりやすいことを発言したことに、本人は後悔しているだろうが

わかりやすい言葉だったので国民はありがたい。

(あなたがどんな庶民生活感覚をお持ちなのか、よーくわかった)

考えれば、金融をはじめ政治権力のトップクラスに「下級国民」が入ることは

あまりない。黒田という男は何者なのか?履歴は知らないし知ろうとも思わないが)

庶民感覚からズレた人物であることがはっきりわかったのだ。

 

国民は、彼が権力側、支配者側の人物であることはわかっていたが、

自分の家計に直接響いてくることがわかってくると、黙っておられない。

(政治経済社会の問題は、誰しも自分の生活の損得に関わってこないと、痛さを伴って感じないと

私を含め「他人ごと」ですましがち

 

しかし、庶民感覚からズレた人物が正直に感じたことを言ったまでだから、

あえて驚くことではないと思う

願わくば、「そうだったのか、国民のみなさんの多くは自分(黒田)が感じていた

ことと違っていたんだ」とこれまた正直に反省し、反省に従って為すべきことを

為せば、庶民は救われる。

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中流崩壊』  橋本健二・著 という本を読んだ。

 

                            

目を覆いたくなるほど「格差」が酷い。あまりにも酷い実態なので、

かつての「中流意識という幻想が現在の日本には起こるはずがないと、

つくづく思った。

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私は自分を「中流」だと思ったことはない。

が、衣食住に困るようなこともなかったので「貧乏」とも思わなかった

が、中学を卒業して入った学校は全寮制で、そこで初めて紅茶なる飲み物をを知った。

紅茶をすすめてくれたのは都会的な子で、それまでの自分の暮らしにはなかったものなので、

一種のカルチャーショックだった。

社会にでてから市バスに乗るお金がなくて腕時計を質屋に入れたことがあったけれど、

それとともに強く心に残っている

 

しかし、いつの間にか社会の空気、マスコミに「洗脳」され、無自覚ながら

中流意識に侵されていた気がする

わが家は貧乏の部類に入っていたと思うけれど、小さい頃からもっと貧乏な生活を強いられている

人たちを身の回りにたくさん見てきたので、貧乏だとは思わなかった大嫌いな「ランク付け」で

強いていえば「中の下」「下の上」くらいだったと思う》。

それが「思い込み」の謝りだったことがわかったのは、長じて社会を知ってからのことだった。

「思い」という心がなす主観はいい加減で、容易に「思い込み」になってしまう

 

福祉施設働いていたとき自分の給料はいい《高級とは思わないけれどまぁ普通》と思い込んでいた。

私の場合「思い込み」は自分に都合のいい方に働く《バカにされているのかどうだかよくわからない

けれど「おめでたい人でよかったね」とツレによくいわれる》からいいが、逆に悪いふうに思い込んで

心配する人もいる

こんな意味でなら《実態とは違っていても》「中流意識」もいいのだろうか?)

 

                

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貧乏な暮らし、それに近いものがどういうものか、自分の肌身で実感しなければ

わからない。

だが想像はできる。

(はじめに書いたこんどの日銀総裁発言だけのことではないが、政治にたずさわる者の国民、市民、

庶民の暮らしを想像することはそれほどむずかしくはないし、想像することは彼らの義務とさえ

いえる。

 

人間は想像できる。そういう能力をもっている。

どんなことだろうが、自分とはかけ離れたものごとでもを想像力を働かせば、少しはわかる

それが豊かであろうが貧しかろうが、一人ひとりに神さまがたまわれたこの能力のありがたさを

この歳になり強く感じるようになった)

 

その想像力をはじめ運動や芸術の能力のような個人に属するものは、

その個人にとっては、どんな親、どこの家、どの地域・時代に生まれたかという

たまたま」(しかしそこから逃れられない)「運命的」なものを感じざるを得ないが、

社会にとっては、社会に大きく関係するものは)驚異的な進展の現代科学技術という

社会の力で克服が可能だと私は考える。

 

いまだに、自分にはまったく関係のない責任のない。コロナ禍もそうのときどきの

社会情勢、経済状況が個人の人生に決定的に大きな影響を及ぼしている現実。

就職は人生の大きな転機。そのときの「タイミング」が社会情勢の上向きならば、

「運がよかった」下向きならば「運がわるかった」で終わる。

 

前の記事に書いたが、ホモ・サピエンスの私たちは20万年経っても、

まだ「ウンが良かった」「悪かった」と喜び悲しんでいる。

(喜び、歓び、悦び、慶び、嬉しさ、楽しさ…悲しみ、哀しみ、苦しみ、辛さ、悩み、不安、心配…

があってこそ人生というものだろうか?

《先日「過送金4630万円事件」があった。おかげで「ネットカジノ」というものがあることも知った。

カジノで当の24歳の男は「使いきった」という。それも人生なのだ》

「人生」とは徹頭徹尾個人のもの

しかし、少なくとも社会が及ぼす「運・不運」は避けられると思う

社会をいつまでもこのままにし、「私が悪いんだ、いけないんだ」と自分を責め、仕方がないと諦めて

いいのだろうか《「仕方がない」のは個人の資質、能力のようなもの、人生における「運命的」なもの

だけではなかろうか》)

 

                  

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【引用】

「①〈まえがき

新型コロナ禍の直撃を受けたのは、まず非正規労働者、そして自営業者や個人事業主だった。

ここに新型コロナ感染症の「階級性」があらわれている。

一般に現代社会には、資本家階級と労働者階級という二大階級のほかに、二つの中間階級がある。

→新中間階級と旧中間階級

小さな商店や町工場が多数あるからこそ、多様で個性的な商品が流通し、ニッチな分野での商品開発も

進んできた。だから窮地に陥っている自営業者や個人事業主を社会全体で支えなければならない

「総中流」論の起源

→「中流」意識はアンケート調査によってつくられる

階層帰属意識に関する集計結果をもとに、この社会は中流階級の社会だ、均質で平等な社会だなどとする

主張は、日本だけではなく海外でも、古くからみられるのである。

忘れられつつあった「階級」という用語

→アンケート調査の内容、尋ね方によりどの国でも9割が「中流」という階層意識をもち、

自分が「労働者」という「階級」にあることを忘れてしまう。

「総中流」はなぜ受け入れられたのか

それはおそらく、「中流」という言葉に「良きもの」「望ましいもの」「人の理想的なあり方」という

イメージがつきまとい

日本人はなぜ自分を「中流」だと思ったのか?

人々は、自分の生活水準が社会全体のなかでどのような位置にあるのかを知らなかった。…

学歴も職業も異なる人々と比べて、自分の生活水準が高いのか低いのか、判断がつかなかった。…

だから、「あなたは”中“だ」といわれても、これに疑問ももたなかった。

階級格差をどう縮小するか?

まず近代産業の基幹産業、たとえば製鉄、自動車や電子部品の製造などを、個人企業が担うことは

不可能である。旧中間階級が手がけることができ、大企業と対等に競争できるのは、

精密加工や工芸品の製造、小売業やサービス業、農林漁業など一部に限られる。…

自営業者の減少によって、失われたものは多い。

地域の商店街で廃業が相次ぎ、シャッター通りが増え、買い物が不便になった。

 

(注:「」〈〉、①~⑤、→黒字部分、太字はこちらでしました)

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引用の①と②、③について、

次回から2回にわけて書きます。

 

 

 

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                              ちりとてちん

 

 

 

 

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