希望。
ここでの「希望」は、『人生の終わりをしなやかに』という本にあるので、
重篤な病気を前にしての希望ということ。つまり、治癒の可能性など。
だが、この言葉自体はいろいろなとき、とくに危機に陥った場合、
そこから脱出しようとするとき使われる。
病気が治る、よくなる可能性だけではなく、希望を持つことの大切さをあらためて
強く思った。
「希望」を想っていたら、突然、若いとき聞いた「♪希望という名のあなたを
たずねて…」という歌が脳の奥底で響いてきた。
この歌は恋の希望だけど、「希望(きぼう)」というのは、ほんとうにいい言葉。
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「〈希望は現在の私の姿勢に〉
希望はどこにあり得るでしょうか-どのような仕方であれ、「死へと向かう目下の生それ自体に」
と応えるしかないと私は考えています。
〈現在の生への二重の視線〉
終わりのある道行を歩むこと、今私は歩んでいるのだということ-そのことを私が積極的に
引き受ける時に、終わりに向かって歩んでいるという自覚が希望の根拠となるでしょう。
この場合、「希望を最期まで持つ」とは、実は「現実への肯定的な姿勢を最期まで持つ」
ということに他なりません。
つまり、「希望の対象となるものが未来のどこかにあって、それを望む」というのではないのです。…
「望む」という私の姿勢自体に希望の在処があるのです。
「望む」という姿勢は、自己の生の肯定、「これでいいのだ」という肯定です」
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私の頭は働きが鈍いから、ゆっくり読んでも数度だけでは書かれていることの
理解・認識ができず、これはだいじと感じられることは何度でも納得がゆくまで
繰りかえし読み、咀嚼するが、上の引用部分もまさにそうだった。
① 「死へと向かう目下の生それ自体」
何という歯切れのいい言葉、中身だろう!
② いま自分は死に向かっての道を歩んでいるけれど、
「そのことを私が積極的に引き受ける時に、
終わりに向かって歩んでいるという自覚が希望の根拠となる」。
それは「現実への肯定的な姿勢を最期まで持つ」ということであり、
「「希望の対象となるものが未来のどこかにあって、それを望む」
というのではない…
「望む」という私の姿勢自体に希望の在処がある」といわれる。
つまり、死をきちんと(丁寧に)受けいれ、死に向かって歩みつつある自分を
意識していること自体が「希望の根拠」(というより「希望」そのものだと私は思う)
であり、「「望む」という私の姿勢自体に希望の在処がある」のだ。
つまりつまり、たいせつなのは「「望む」という私の姿勢自体」。
③ もうじき死ぬことがわかっているけれど、そんな現実を「これでいいのだ」と
肯定しようとすることが「「望む」という姿勢」だといわれる。
このことは、まさしく①の「死へと向かう目下の生それ自体」を肯定することだ。