『死について-あらゆる年齢・職業の人たち63人が…』スタッズ・ターケル著
という本を読んで、死についての感想を書いたけれど、また死についての本に
出あった。
『人生の終わりをしなやかに』 清水哲郎 浅見昇吾 アルフォンス・デーケン
とてもよかった。
二つのことだけ書きます。
(きょうは、よくいわれる「インフォームドコンセント」に関したこと。
次回は、「希望」ということについて)
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「インフォームドコンセント」とは、ウィキペディアによれば
「「医師と患者との十分な情報を得た上での合意」を意味する概念。
医師が説明をし、同意を得ること。
特に、医療行為や治験などの対象者が、治療や臨床試験・治験の内容についてよく説明を受け
十分理解した上で対象者が自らの自由意志に基づいて医療従事者と方針において合意すること」
若かったころはこういう言葉は聞いたことがなかった。
自分が知らなかっただけで、すでにこういう考えがあったのだろうか。
(50代半ばで深刻な外傷を負い、時を同じくして胃ガンになるまで元気そのものだったので、
闘病記やテレビで「インフォームドコンセント」と聞いても他人ごと感覚だった。
自分ごとになってはじめて身に迫ったはずだが、いざ、わが身のことになると、その時はすでに
意識レベルも下がっており、ほとんど頭になかった。
「十分な情報を得た上での合意」どころか、患者としての私は「まな板の鯉」だった)
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「インフォームドコンセント」について本ではこう述べられていた。
「■情報共有から合意へ
〈情報共有から合意へ〉という意思決定プロセスの把握によれば、
医療側も治療方針の選択に必要なかぎり、患者本人や家族の人生の事情を知る必要があるのです。…
治療方針の選択は両者の〈共同決定〉によることになります。
■皆と一緒に、自分で決める
専門家に聞き、分からないところは、分からないと正直に言って、
分かる言葉で説明してくれるよう、頼みましょう。
次に、そこで理解した選択肢を、自分の人生の事情、人生計画、どう生きようとしているか、
生きたいかということと対応させて評価しましょう。
そのことをケアに従事している方たちにも遠慮なく語ってください。
ケア従事者、ことに専門家は、専門のことは分かっても、あなたの人生の事情は知らないのです」
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「人生の事情」という言葉がすごく印象的だった。
「生きるか死ぬか」というほど深刻な場合ではなくとも、
「インフォームドコンセント」は、
その人にとってだけの個別の「人生の事情」が問われなければならない
ということ。
主治医たちは、「あなたの人生の事情は知らない」のだ。
彼らに向け(うるさいと思われても)しっかり自分の人生観、価値観を伝えなければ
ならないのだ。
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その主治医が、患者をまず人間として尊重する誠意ある人ならば、
患者と家族を理解しようと、こちらの話をきちんと聞こうとしてくれる。
(そういう医者ならば、「インフォームドコンセント」にもとづいた治療方針が完璧に信じられ、
こっちも本心から、自覚して「まな板の鯉」になれるというもの。
たとえば治療方針に手術があったとして、その先生の未熟さゆえの失敗で死んだとしてもいいと思う
《が、もう死んでいるのでわからないか》)
が、主治医にどんな医者が当たるのかはくじ引きみたいなもので、ウンに任すより
仕方がない、のかもしれない。
でも、ここを読み、入院経験者の私は強く思った。
(私の場合は、救急で運ばれた自分を主治医が助けてくれたんだと当初の一週間ぐらいは感謝の念に
とらわれていたけれど、そのうち回診の言動に「こんな人柄なんか」とため息をつくことが増えた)
ウン悪く「あ~ぁ」と感じる医者が主治医になったもんだと思うようになっても、
そう思わない、感じない、決めつけないことがたいせつ。
そんな医者でも、しつこく自分を主張し続けることがたいせつ。
しつこく自分を主張し続けれていれば、そんな医者でも、いつかそのうち思いは
通じる。
(私の場合は、こんな人にいくら言っても通じないと早々にあきらめたが。
この本には出あっていなかった)
しかしよく考えれば「いつかそのうち」と悠長に構えてはおられないときもある。
そういう場合、形としては「治療方針の選択は両者の〈共同決定〉」ということに
なっても、内実は、弱い立場の患者とその家族側は、強い立場の医療者側に圧され
引っぱられたものになっても仕方ない。
仕方ないけれど、「仕方ない」ことはちゃんと自覚しておきたい。