今日は最後、
⑦、⑧、⑨です。
⑦
「人生には大きなドラマや事件が起こるような重大な変化のタイミングがあるんだけど、
その時と時の間、つまり波と波の間みたいな、何も起こらない時間もじつはけっこうあって。…
こうして波間で誰かと一緒に見る月も、いいもんだな…」
⑧
「不治の病大悲恋メロドラマとかじゃなくて。涙と感動の出産シーンとかも途中で入らなくて。
なんかずっと地味な出来事ばっかりで。日常生活と治療が続いているだけで。死なないし、
急に倒れないし、人生におけるすごい真理を恋人や夫や友達や子供に教えてあげるという、
誰かにとって都合がいい天使的役割も負ってないし。…
何も起こらない、病に倒れて病とともに生きているだけなんですけどってお話、そういうお話が、
漫画とか映画とかなんかドラマとか、なんか、なんか、どっかに存在したらな。あったらな。」
⑨
「(自分が乳がんを患っている事実)これは闘いではなく旅路…
わたしはずっとわたしという存在だと、つまり自分自身でしかないと思ってここまでずっと
生きてきたけど、…周りとの境界線が見えなくなっていって、わたしはすべての人でもある、…
と感じ始めた。」
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⑦
人生には「重大な変化」が多くの人に起こるけれど、(私もすでに若くはかったが
《かといって「老人」というには早過ぎ》、ドラマのような格好がつくものじゃないけれど
「重大な変化のタイミング」があった。
だけど、そういうこととは関係なく)「何も起こらない時間もじつはけっこうあ」る。
その「重大な変化」にかかわらず「何も起こらない時間」を大事に過ごす。
そして、「こうして波間で誰かと一緒に見る月も、いいもんだな…」と思う。
(いつ「重大な変化」が訪れるかもしれないので、「一期一会」の気持ちで毎日を過ごしたい)
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⑧
たまたま(他人ではなく)自分の身に「不運」が起きただけ。
たまたま乳がんになっただけ。
数あるがんのうち、たまたま主人公「彼女」は乳がんになったけれど、
乳がんになっても、
「なんかずっと地味な出来事ばっかりで。日常生活と治療が続いているだけで。
死なないし、急に倒れないし、…天使的役割も負ってないし。…」
「何も起こらない、病に倒れて病とともに生きているだけなんですけどってお話、
そういうお話が、…なんか、なんか、どっかに存在したらな。あったらな。」
ホント、そう思う。
(胃ガンになった私は同じころ脳外傷を負い障害者になり、ダブルだったので、初めしばらくは
特別、不運のような気がしたが、時がたつにつれて「運がいい、悪い」というより、
「これが運命だったのダ」と思うようになった《そうだが、自分を「運命論者」とは思っていない》
そういうわけで、自分に対する「特別感」はなくなった)
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⑨
(病との「闘い」ではなく)「旅路」と主人公「彼女」に語らせる著者。
すごく共感した。
(「旅路」つまり旅は、多くは芭蕉の「月日は百代の過客」から人生そのものと形容され、
長い「闘病」は、それも人生の「旅路」に含めてしまうわけか)
「旅路」の終着点が、(「完」ではなくともいちおう)治ったとこまで行けば
万々歳だけど、ひょとして転移が起きたりで、最悪、死ということもあり得る。
そういう身体のことはわからないけれど(そもそも何で自分が乳がんになったのかさえ
わからないのだ)、
「わたしはずっとわたしという存在だと、つまり自分自身でしかないと思って
ここまでずっと生きてきたけど、…周りとの境界線が見えなくなっていって、
わたしはすべての人でもある、…と感じ始めた。」という。
ここも何となくわかった。そして強く共感した。
「乳がんである自分」。
(主人公「彼女」は)その事実は特別なことではないとずっと突き放すような言い方
をしてきたけれど、そうしていること自体が、すでに「乳がんである自分」に
「わたしはずっとわたしという存在」だと、どこまでもこだわっている。
でも、それがずっと長く続くうちに、乳がんの「わたしという存在」が、
「すべての人」の中に溶け込んでゆく。
「わたしはすべての人でもある」と感じ始めるのだ。
今日の一句
一人づつ きて千人の 受験生 今瀬剛一