今日は一つ〈人生は「問題解決のため」にあるわけではない〉です。
③ 〈人生は「問題解決のため」にあるわけではない〉
「解決できない問題を抱え込んでいても、人は生きていける。
生きていけるどころか、その問題を足場にして人間的成熟を遂げることができる。
(たとえば、人が見ていようと見ていまいと、自分が正しいと信じていることを行う。
他人、社会は見ていなくとも「「お天道さまが見ている」という信仰のかたち」で自分を律し、
人間的に成熟してゆく、と著者はいう。
その「人間的成熟」ということで、著者内田さんは友人の平川克美さんがある本の「人生相談」で
述べられていたことが哲学思想学者としての自分の専門のレヴィナスと変わらないことを言っていると
平川さんの言葉を引用しながら述べられる)
贈与経済の起点にあるのは「私は贈与された」という被贈与感覚である。
それを感じた人が反対給付義務に急かされて、誰かに何かを贈る。
そこからエンドレスの贈与経済が始まる。
…
損得勘定とか費用対効果というような寝言を言っている人間は、経済の本質と無縁なのである。
…
(平川さんの言葉)「自分が獲得したものの重さではなく、負債としてかんじているものの重さを
感じ取る感性こそが、人を成熟させる」
…
ここで平川君はほとんどエマニュエル・レヴィナスと変わらないことを語っている。…
平川君は「私たちは、生まれながらにして負債を負っている。(生きる中で)それをなんとか返して
おこうとするわけです。」というきわめて宗教的な命題を語る。
「だから、他者が貧乏になっていることへの責任を自分も分かち持とうとする」」
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よくいわれるように、「生きておればいろいろある」。
(よく考えれば、確かに「人生は「問題解決のため」《という目的》にあるわけではな」く
「問題解決」という目的自体が人生という《いうなれば手段》過程そのもの。
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どんな人生の問題も(主体的に選んだものであれ、偶然に出あった、与えられたものであれ)
「その問題を足場にして人間的成熟を遂げることができる」はずだと。
(「人間的成熟」ということが、ここでのテーマ、主題だけど、普段ほとんど思ったり考えたり
意識することはない。
そればかりか、あまりに高い人生目標・理想なので、深いため息をつきたくなる。
でも、獣とか鳥とか魚、虫、草花など他の生き物だったかもしれないこの命の不思議を想うと、
自分はヒトだったわけだから、「人間的成熟」をしなければならない気がする
《キリスト教であれイスラム教であれ仏教であれ、「人間的成熟」のようなことを説いているのに
戦争はやまない)
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突然、「贈与経済」という話が出てくるけれど、「経済」とは本来「経世済民」
(ネット検索すればよくわかります《「京都大学 都市社会工学専攻 藤井研究室」というサイトを
私は見たのですがよかったです》。そこにあるように「「世を經め民を濟う」こと…つまり民を救う
ために様々な公的対策を行わんとすること」)ということ。
現代人の私たちは「贈与」というと、「贈り物」(誕生など記念日もの、「お中元」
「お歳暮」など儀式的なもの、土産などのおすそ分け)、一時のプレゼント的なものしか
浮かばない。
(が、それは世の中にカネで買えないものはないほど貨幣経済が行き渡ってからのこと。
それまでの世、社会の人間関係には「贈与」「被贈与」が普通にあった。
なくては生きていけなかった)
日本には昔から(いまも欠片くらいは)「お互いさま」の心があり、
アメリカなどでは「いまの自分が成功している(「成功」とはいえないにしても健康で
平穏無事に暮らせているのは)社会のお蔭」ということで寄付(贈与)は普通に見られ
特別なものではない。
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「自分が獲得したものの重さではなく、負債としてかんじているものの重さを
感じ取る感性こそが、人を成熟させる」
(この平川さんの言葉に、著者が熱を込め共感されているのが強く伝わってきた)
「私たちは、生まれながらにして負債を負っている」。
だが、生きることを通して「それをなんとか返しておこうとする」。
これは、まさしくレヴィナス(著者がとても強く敬愛する哲学者)がいっていることと
変わらなと述べられる。
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ここまでの話から、「天賦」という言葉を思った。
(「生まれつき(資質、才能など)」ということだけど、合理的にはうまく説明ができず、
「天」とか「神」など超越者を持ち出さないと難しい)
「天賦」といえば「天賦の人権」を連想する。
「生まれながらにして負債を負っている」ことも天賦。
(そのことを知ったいまは、すでに私は老いて遅いけれど、遅まきながらも残り少ない生を
「生まれながらににして《の》負債」を)「なんとか返してお」きたい、と思った。
(「生まれながらにして負債を負っている」という考え、思想はキリスト教の「原罪」と同根のもの
だろうか。キリスト教はまったくの無知だけど、「原罪」意識、思想には強く惹かれる)
蜩の 最后の声の 遠ざかる 稲畑汀子