カメキチの目
ひと月ちかく前、共謀罪が成立していろいろ思った。
ほんとうに、「テロ等」を準備した(する)者だけを、彼らがコトを犯す前に予め防ごうとするものだろうか?
誰でもテロはイヤなので、そのことだけを政府は強調し、
「テロリストを探すのには、『少々の自由制限』もやむをえないか。GPS操作も、メールの解読も、監視カメラ漬けもしかたない。プライバシーを暴かれるのはイヤだけど、安心・安全にはしかたない…」と、
法案反対の声、もっと慎重な審議を!という声はつぶされた。
成立してすぐあとのTBS『報道特集』で、内田樹さんが番組キャスターに、「市民が市民を監視する、密告する」社会の到来しそうな恐ろしさ(戦前の自治会、町内会が戦争反対を叫ぶ人を『非国民』扱いし、『村八分』したことを思い出します)を強く憂えておられた。
内田さんの「市民が市民を監視…」は、つまるところ、「監視・密告(いやスミマセン。「報告」でした)」を一種の公的ボランティア組織・町内会など(「自治会」というところもあります。昔は相互扶助機能も果たしたので確かに「自治」といえます。だけど実際は、多くが無報酬の行政下請け住民組織となっているようです。私は二度の会長経験者で、それを痛感した)に任せれば、日本一巨大な組織・警察に予算をさいてまで市民を監視させなくてよい。
行政には一石二鳥、一挙両得である。
こんなこと考えていたら、フッと気づいた。
私はよく安倍・トランプがどうの、独裁者がどうのと批判しているが、いちばん怖いのは彼ら絶大なる権力者の弾圧(もちろんイヤですが)よりも、自分と同等の庶民、そんじょそこらの「ふつう」の人にガッカリさせられる、裏切られることが、いちばん辛い。
映画やテレビドラマでも、少しばかりのカネで弱者をつり、「ふつう」の市民でも言葉の魔術を弄してうまくまるめ込み、一般民衆を分断、引き裂く。
・1994年、ルワンダの大虐殺。
・1991~2000年のユーゴスラビア紛争。ルワンダと同じく、仲よく暮らしていた人々が民族が違うということだけで憎しみあい、殺しあう。
・…
きっかけは、すべて当時の政権や民族のリーダーにあった個人の政治的言動による扇動だ。
その些細な言動に民衆が、自らの「不幸」は隣人にあると思い、憎悪の感情に火をつけ、かきたてる。
前回の『臨終考』で森達也さんが言ったように、凡庸な、「ふつう」の人が、平気で他人を殺せるのだ。
先の戦争で「チャンコロ」と言って中国人を殺した日本兵、ベトナム戦争でソンミ村虐殺事件を起こしたアメリカ兵が残虐な人だったわけでは決してない。
恐ろしい
どうぞ、そんなことが起きませんように!
杞憂に終わりますように!