カメキチの目
前に『半分青い。』という朝ドラのこと書きました。いまは終盤。
中盤のころ、「ウ~ン?」と引っかかることがあった。
きょうはそのことを(今ごろになってスミマセン)。
続
【その前に】その中盤とは
■主人公すずめは好きな人(涼ちゃん)ができて結婚。子がうまれ母となった。
それまで漫画家をめざし、(いいところまで行ったのに)才能などに限界を感じ、その夢はあきらめ、幸せな家庭を築くことにした。
(ところが、すずめの家庭生活が順調に進行すれば「ドラマ」は成り立たないので、ここでドラマチックなこと、波乱が起きた)
何か?
■突如、とてもやさしくステキな涼ちゃんが「離婚」を切りだした。
(彼が豹変、「悪人」になった、やさしさが消えたわけではないのです)
それどころか、彼の才能が開花したらしく世間に認められようとしているところにきた。
ー もともと彼は将来のデビューを夢みて映画の助監督の仕事をしており、まだ安定していないのでかけもちでアルバイトもしていた。そのアルバイト先で主人公と出あったのだ。
ふたりは相思相愛となり結婚。子どもができて父親になると、不安定な生活が強いられる映画作りの世界から足をあらい、「カタギ」の仕事に就いてすずめと子どもを幸せにすると誓った。
が、夢は捨てきれなかったらしく、すずめに隠れてコソコソ書いていた映画のための物語《作品》が当たったわけです ー
■涼ちゃんには長年の夢がかなえられるチャンスがめぐってきた。
生涯にあるかないかのチャンスだ。
彼はずいぶん悩んだ。
が、「チャンスを逃してはならない。逃すと一生、自分は後悔する」。チャンスに賭ける。チャレンジすることを選択した。
結果、
妻子を(言葉が悪いですが)「捨てた」のでした。
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その方面の才能・能力の有無。ウンの有無。そんなことは誰にもわからない。
時がたち、結果が出るまでわからない。
結果が「よかった」ら「ウンがあった(ついていた)」というのでしょう。
「結果」といっても、ただ、世間的に評価されたというだけのこと。
世間から評価を受けても、評価され続けるのはたいへん。疲れる(それを覚悟するなら別でしょうが)。
世間の評価などあまり気にしないという態度もあります。
「結果」は出せていない、すなわち「成功」していないので負け惜しみの感はぬぐえませんが、世の尺度では自分をはからないという態度には私は共感します。
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涼ちゃんのような立場にたったとき、
「人はどういう選択をするか?」
自分の才能とか能力なんてこれっぽちも考えたことのない私には「ヨソゴト」だが、気になった。
人生のことだからむずかしい。「正解」などもちろんないだろう。
涼ちゃんはとっても誠実な温かい人柄なんだけど、この段になって才能が世間から認められようとするチャンスが訪れたことで離婚を決意した。
(すずめたち家族に迷惑、苦労をかけたくない思いと、家族がいると気が散る・集中できないという気もちも同居した複雑な心境だったのでしょう)
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しかし、
私には残念なことに思われた。
(つまり、そういう決断をしてほしくなかった)
■彼はすずめに断言したとおり、「不安定な映画作りの世界から足をあらい、『カタギ』の仕事に就」いてほしかった。
隠れてコソコソ書くという未練たらしいことをすべきではなかったと思ったのです。(書き続けて発表すれば、努力すれば《才能も必要ですが》いつかウンがついて認められる、「成功」する可能性はあったわけです。当たるはずないと思っている宝くじでも、買い続けていると、そのうち当選するかもしれない)
■実際、涼ちゃんの才能は眠っていたらしく、今になって開き、世間の評価とマッチしたのです。
(「運命のイタズラ」? ならばしかたのないことなのか?)
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離婚してからのストーリーは、もちろん「ドラマ」ですから、視聴者を飽きさせないために目まぐるしい展開をみせています。
それにしても、人生はままならない。
はた目では他の人の人生はわからない。
ということを強く感じました。
あらためて、秀でたところが何もない自分を思った。
あれば(正確には「あると感じれば」)それを生かし、「成功」させようと努力しなければならなかったと想うと、努力が嫌いで苦手な自分は悩まなければならなかったところだ。
凡々とした自分だが「私は私」。それでよかったとヘンに納得した。
【オマケの話】
自分の来し方、世のなかの限りない人々の姿を想うと、やっぱり、人生は「ウン」、「偶然」の連続だと思った。
そう思っても(「結果」どうであろうと)、やっぱり、「努力」はたいせつ。