カメキチの目
Q
子どもにやらせるのなら、合気道と柔道、どっちでしょう?
(じつは著者は古武術家で、長いこと合気道をやっておられ、達人の域に達しておられます)
(グーグル画像さんから借りました)
A
ものを学ぶときは、学び始める前にあまり予備知識を持たない方がよい。これは僕の経験的確信です。…
(注 著者は大学の先生で、教え子のなかの)その学生たちは、効率よく有用で換金性の高い知識や技術を手に入れることよりも、自分が何者であるのかを知りたがっていた。自分の中には、自分自身も知らない、知的可能性が眠っていることをぼんやり感じとっていた。
もちろん、内田さんは「合気道(もしくは柔道)がいいです」なんてことは言わない。
スポーツではない「習いごと」のQでもいっしょだろう。
(モノになってほしいと高望みするのは別にしても)やってよかったと満足できるくらいにはなってほしい、と親ならだれでも願う。わが子のことだもの。私だってそうだ。月謝もバカにできないらしい。
私の場合は、(子どもたちがウチの経済状態を察して遠慮していたのか)習いごとも学習塾も「…したい」とは言わなかった。
「なんかあるだろう。言ってみぃ!」と言った(ような気がする)が、なにも返ってこなかった。
(これは別の話ですが、歳とってから初めてマイホームに住みました《庭つきはムリだったし、いずれ老いた母の世話‐もう死にましたが‐のためバリアフリーのマンションにしました。自分が障害者になることを予想してのことではありませんでしたが、結果的によかった》。それまでずっと、アパートか借家。マンションに住むようになったころは、子どもたちは成人していました。
成人した娘たちがそろって帰省していたあるときのこと。ひとりが言ったのです。「子どものとき、友だちをウチには連れてきたくなかったわ。だって、ウチはみすぼらしいもん《そんな意味のこと》…」ほかのふたりが相槌うった。「そうそう…」
ちょっとショックだった。アパートや借家ぐらしがではない《子ども部屋を与えられなかったからではない》。子どもたちの親には言えない、言ってはならないという思いを想像しようともしなかった自分に対して。
もっとも何かの習いごとをしたいとはほんとうに思わなかったようで、こっちは救われた)
習いごとにしろ何にしろ、学ぼう、身につけようと思う前には、内田さんが言うように私も事前の情報を含めて予備知識なんか持たないほうがいいと思う。
旅の途中で分かれ道に出あったとき、足から履物を投げて落ちた方に近い道を選ぶように決めるのは(ひょっとして自分の人生を左右するくらいの重い意味を持ってくるかもしれないので)どうかとは思うけれど、基本はそんな「偶然まかせ」でいいのではなかろうか。つまり、(迷っているなら)合気道でも柔道でもいいのではないか。やれるのなら両方ともやればいい。
「努力」「練習」「鍛練」嫌いの怠惰な私が言うのは気がひけますが、きっと、柔道も合気道も剣道も…やる人の心構えがどうあるのがたいせつなのか、ということなどに行きつくのでしょう。
行きつくところ、目的はいっしょでも、そこにたどり着くまでの道は人によりさまざま(個性)なんですね。
だから、やってみる前に、どっちにしようか、どっちがいいかと、瑣末なことで悩むのはつまらない。
「自分さがし」がはやり、「アイデンティティ」という言葉がよくつかわれたときがあった。
(「合気道、柔道、…?」とは直接には関係ないけれど)ただ頭の中だけで自分というものを問うてもわからないときはわからない。そういうとき、身体を動かすことによって何かたいせつなことに気づくことがあるかもしれない。
ほかのQAのところで、著者は教え子たちのボラティア活動などを例にあげながら、「やりたいことがわからなくても」、身体を動かして何かをやってみたらわかることがあるかもしれない(ないかもしれない)と述べておられました。
汗を流してみて初めてわかること。
話が大きく飛躍しますが、たとえばカネ儲け。
「マネーゲーム」という言葉があります。
‐投資とは本来、社会にとって必要、たいせつだと思う企業を育てるために資本金となる資金を自分の手持ちからその企業に提供すること‐
ところが、現代では単なるカネ儲けの手段となっている感があります。
資金さえあれば、手軽に気楽に(はずれるリスクもあります)できるカネ儲け。
しかし、こんなのでいくら儲けたって、汗水たらして働いて(身体を動かしてする社会貢献)手にしたカネと格がちがう。
(「品格」という言葉がやったことがあります。時代や地域を越える普遍的にだいじなものだと思いますが、ひょっとして「おカネはおカネ」。「品格」なんて幻想かもしれないですね)