カメキチの目
【続き】
[暮らしと人びと②]
父は自営で山仕事をしていた。
ところが日本社会は高度経済成長が始まる。
安い材木が大量に輸入され、父だけでなく、日本の林業は立ちいかなくなった。
都会には多くの労働者に働いてもらうために住むところ、家を用意しなければならない。建てなければならないのだ。そうでなければ、第二次産業、つまり製造業は労働者不足で成りたたない。
農林水産。なかんずく林業なぞ、「国策」の第二次産業優先にかなわない。かなわないどころか切り捨てだ。
東南アジアなどからの外材は当時は豊富にあったし、「森林保護」も「地球温暖化」も「生態系保護」も今日のようには叫ばれていなかった。それに現地の労働者の賃金は日本とくらべて格段に安いので、コストがかからず、内材がたちうちできようはずがない。並行して、
農業、水産業も軽視され、電気エネルギーを生みだすために、私たちのあまり知らないうちに「国策」としての原子力発電所が、米や魚、木だけでは食っていけなくなった田舎(いえ地方でした)にどんどんつくられた。
私は教科書で教わった茨城県の「東海村」しか知りませんでした。迂闊だった。
父は木で食えなくなった。が、飯は食わねばならない。
失業するわけにはいかなかった。
「生活保護」という制度はすでにありましたが、それを受けるという発想は当時の田舎ではほとんどなかったのではないかと思います。
何よりもまだ地域のつながり、親戚づきあいが生活の大きな位置を占めていました。つまり、生活が貧しくてもお互いがたすけ合うので、行政からの援助はいらなかった。
よく「地域の絆」とか「大家族(血縁の絆)」とかいわれますが(東北大震災のとき、三陸のほうでは昔からの強いつながりが今もちゃんといきておりうらやましくなりました)、昔は日本全国どこにもあったのでしょう。
それは、私は当時こどもで庇護される立場にあったからそう感じたのかもしれませんが(大人なら、うっとうしい、「シガラミ」と感じるものもあったでしょうか)、親族や地域の強い絆で、「守られている」という実感がありました。
(「共同体」などという言葉をいつごろ知ったのだろう。自分がそこから脱けでて、ひとりになって、初めて実感をともなって理解できるようになった)
というわけで、
早いうちに取った運転免許証さえあればということで、すぐにできるような商品の運送配達をしばらくやっていた。
しっかりした運送会社ではない。小さな田舎まちのこと。どこかの個人商店の小間使いのようなことをやっていた。
しっかりした会社組織のところに勤めたわけではなくとも、これが、父の完全な「労働者化」でなくてなんだっただろうと、いま思う。
そのころは私はもう家を出ており、こっちもまた世間の波にもまれていたわけで、そのころの父のようすはほとんど知らない親不孝者だった。
映画『三丁目の夕日』の六ちゃんのような集団就職は、教科書に書かれたような高度経済成長期の東京などの都会が、食うことさえたいへんな地方、田舎、そこで就職するにはむずかしい若い労働力を吸いとっていった典型なのだろうが、その裾野にはすでに都会に行くには歳とり過ぎた父のような者もたくさん生みだされていたことだろう。
それでも当時の日本社会はしばらく続く高度経済成長期の初めのころ。
(まだ世間知らずで、私が知らなかっただけかもしれないが)いまのような「不正規労働」、「ブラック」という言葉もまだなかった。個別にはいろいろな問題があったであろうが、「まじめに働いておればちゃんと食ってゆける」という安心感みたいなものがあった。
「正規労働」、「正規社員」が一般的で、あることにはあったが「アルバイト」「臨時」「パート」は例外だった。
能力の優れた個人には不満だったであろう「年功序列」は、「年の順」ということであり、ある意味では自然の理にかなったいい制度であると私は思う(自分には能力が欠けているからではありません。いや、それもアリか…)が、いまはあまり評価されない。
労働者はたいせつな人権として、団結権などはあたり前のように行使し、いろいろ問題はあっても労働組合はちゃんと働く者のために存在した(労働組合の事務専従の「労働貴族」《その労組の委員長とか書記長など》みたいなのもいたのでしょうが)。労組のない小さな職場にも、たとえば大きな労組が「春闘」で勝ちとった成果も、(遅く小さくなっても確実に)目に見える形で広く行きわたった。
だからよくいわれた「一億総中流」だったのか。
戦時中の「一億総懺悔」や近ごろの「一億総活躍」のように、オカミからの言葉じゃなくていいですね(いや、オカミがつくり出した言葉なのだろうか)。
22歳のとき。夜学に行っていたのでアルバイト(勤め先は本屋)だったのですが、正社員になったらそれまでの3万くらいの月給が5万円くらいなり、「おお、いよいよ中流の仲間入りか!」と胸が躍りました。ちなみに働いていた小さな書店。社会保険料もちゃんと納めていてくれていたようで(以後の転々とした小さな職場でも)、老いて年金をもらえるています。あたり前のこととはいうものの、「社長は誠実な人だったんだ」と心で感謝しました。
そのころは、いまのように便利な生活(それはいまと比べるから、当時が「不便」にみえるだけのこと)はしていませんでしたが、みんながドッコイどっこい。今日ほどの「格差」はなかったでしょう。他をうらやむことはなかった。
「労働組合」ついでに…
旅で地方に行くと、ときどき『憲法を暮らしの中に』『非核平和都市宣言のまち』などの看板を掲げたり、幕を垂らしている自治体にあうことがある。
そういうところは労働組合があって、きちんと活動されているのかなあと想う。「ガンバってください」と思わず熱い声をかけたくなる
労働組合の権利が憲法で謳われているのは、本来、労働組合は人権や民主主義と密接不可分の関係にあるからだろう。
いつから私たちは、社会に対して、「現実」という言葉を持ちだしては青くさいとか甘いとかいって、「理想」「あるべき姿」「あってほしい姿」…希望を語らなくなったのだろうか。
いじめ、虐待、殺人など、だれもが目をおおいたくなる事件は別にして、公務員がらみの不祥事(ごく一部のことではあっても)を聞くと私は非常に腹が立つ(国民の尊い税金で国や自治体は成りたっているからです)。
その公務員(官僚だけではありません。政治家も立派な「公僕」)が、ただ上からの指示に従っただけのことでも、それが市民に迷惑をかけたり不利益をおよぼすことがわかっていたならするべきではない、と思う。そういうとき、私は(自分が同じ立場だったらどうしたかを深くは考えないで)罵倒する。そして自分の思い、感情をわかってほしくてツレに話す。すると彼女はときには「そうはいっても、上の命令には、私たちにはわからない事情があって逆らえないのと違う」と返す。ときどきこういうのがもとで気まずくなることがあり、ときにはケンカへと発展したことも。
「自分が同じ立場であったら…」と想像してみることはとってもたいせつなことにはちがいないが…
9月1日。関東大震災で大勢の朝鮮の人々が流言飛語で殺された。東京都では歴代の都知事たち(石原真太郎さんまでそうだったというから、上っ面のことだけかもしれないが。猪瀬さんも舛添さんも)が、そんな酷いことがぜったいあってはならない旨を慰霊の集会で述べたのを、小池都知事はやめたという。
彼女いわく、「私はすべての(大震災)犠牲者に慰霊しようと思う。(虐殺された)朝鮮の人たちもその中に含んでいます」という意味のことを言っていた。
ある都議は、「朝鮮人虐殺」などはなかったと平然と言っていた。また、慰霊碑に刻まれている虐殺犠牲者が6000人という数がまちがっていると発言していた(テレビで知り啞然とした。数の問題ではないだろう!)。
〈続く〉