カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2016.11.26  またまたブログのこと

                                                  カメキチの目

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 世界は限りなく広い。縦(歴史)も横(地理)も。

 

 原始の時代には「食う」こと、自分と家族が生きていくのに精いっぱいだったので、ほかへ目を向けるヒマなんかなかったに違いない。

 人間の数に比べて土地は限りなく広大だったし、助けあわなけば生存じたいがムリだったので、「支配」「被支配」の人間関係もなかったに違いない。

まずは、生き抜くため、食わねばなりません。

突きつめれば、食うために、いろいろなことを知ることになった。

それがいつの間にか、食べることが満たされるようになったので、「知る」こと自体が目的になったのでしょうか。

 

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 ところが、今は「現代」。

 

 人(個人)の一生は、世界にとってはとるにたらない。

 私が存在しなくても、世界は存在する(とわかる)。

 が、私にとっては、感じ、思い、考えなければ「世界」など存在しない(と同じこと)。

 

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 この前、ふっと思った。

 やっぱり、ブログなどはスゴイということ。

 

 現代の日本はホントに便利になった。

 何かの問題で悩むようなことがあったら、別に図書館で調べなくても、親や先生、友だちにきかなくても(相談しなくても)、インターネットがある。ネットは百科事典どころか、相談・悩みまで受けつけてくれるらしい。 「困ったときの神(仏)頼み」はもう古い。笑われる。「困ったときのインターネット」

 だから、そういうときはちょっと積極的、自発的になって、目的意識的に調べ、考えようとする。

 

 ところがブログ。

 記事の中身は多種多様。

 書く姿勢、態度も人によりさまざま。

 

 書く、発信するときは自分のことだから、当然ながら積極的、自発的、目的意識的になる。

 いくらか真面目にもなる。

 

 でも、読むときは受け身である。

言っておきますが、受け身=消極的ということでは断じてありません。

「受け身」ということは、与えられっぱなし。

 そこがいい。すばらしい!

と私は思うのですが、いかがでしょう。

人生。いつも切り開き、開拓してばかりじゃありません、前を向いてばかりじゃありません(少なくとも私はそう)。

 そこはブログという「世間」「社会」なのだが、まるで、「人生」を生きているみたいだ。

「人生」を生きるのは「与えられっぱなし」ではなく、ときには選択し、自分の意志を生かそうとするのだけど(コメントしたり、ときには流す)意外な発見を見つけ、驚かさせられることがしばしばある。

「偶然との出あい」「未知との遭遇」ということがステキだ!

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私の大好きな玄侑和尚は、彼の特大好きの荘子の言葉、「適(たま)たま得て畿(ちか)し」を引いて、「偶然」は「天命」だからすなおにそれに身を任せること(というのはいつもどんなことに当たっても、「イエスマン」になることじゃありません)のたいせつさを説く。

寿命も、きょう食べたお菓子も、みんな私と「ご縁」あればこそのこと。

 

 リアルタイムで(もちろんしばらくしてから読ませていただくこともしょっちゅうありますが)いろいろな方がさまざまなことを発信されている。

 ちっぽけな自分の世界が膨らんでゆく。

 なんと、ありがたいことだろう。

 ありがとうございます。

 

                  ちりとてちん

 

 

 

 

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