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kame710のブログ

2006年7月10日高所から転落、障害者となり、オマケに胃ガンで胃を全摘してなおかつしぶとく生きています

2016.10.21 心配してもしかたない? 未来のこと(11)

 

                                                  カメキチの目

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第5章 「いのちは授かりもの」の意味

 

 第4章でふれた『すばらしい…』が世に出てから70年後、アメリカでは「大統領生命倫理評議会」というものがつくられ、『治療を超えて』という報告書が公表された。『すばらしい…』の時代にはまだ「エンハンスメント」という概念はなかったが、人間性を奪うような科学・技術の進歩・発展に大きな懸念がなされていた。

 

『治療を超えて』では、四つの論点があげられている。(1)安全性

 遺伝子を人工的に操作したりして、操作された人の身体に将来的にどんなことが起きるかわからない。また、後の世代にどんな悪影響が出るかもしれない。

(2)公正さ

 ある種のエンハンスメントを用いた人は、それを用いない人に比べて有利な条件をもつことになる。そのエンハンスメントを用いるには多額の費用がかかるはずで、経済的格差が能力格差と連動する。

そしてますます貧乏人の貧乏な暮らしと能力は固定される。もちろん、例外もありますが、おおかたはこうでしょう。

いまだに人類はこの問題を克服しておらず(克服しよう!という気はなく、人間も動物の一種だから「弱肉強食」はしかたないと、《個人レベルではともかく》社会レベルではあきらめているのでしょうか)、なんども例にあげますが、オリンピックでもカネのかかる競技はいっぱいあります。

貧乏な国の選手が負けるのは、富裕国の選手が勝つのは、確率からいえば「当然」なんでしょうね。

でも、相撲など格闘技で「小よく大を制す」といわれるように、身体の小さいのが大きいのを投げとばしたり、カネのないカープのような野球チームがジャイアンツのようなカネ持ちチームに勝つ。たまのたまにでもそういうのが起こる。それが、スポーツのおもしろさ、すばらしさでしょうか。

(3)傲慢と謙譲

「人間が神になろうとしている」「人が神を演ずる」

 人間は不遜にも人間本来の能力を超えたことをできると思い込み、そこに手を出してしまったために、”恵み”としてこそ得られるものを失う。

「畏れ」というものを知らなくなった。

(4)個人の自由な主体性を傷つける

 自分で選び、自分の力で行う。「私という人間の自由な、主体的な行為」であってこそ、人間活動として尊い。

 ところが、『すばらしい…』では、すべてが管理されており、失敗する、ミスする自由さえない。

その世界での第1の理念は「安全」なので、楽しさも、「触感映画」のように管理されたものが与えれるだけでした。それはたしかに楽しいのでしょうが、「楽しさ」は「楽しくない」を前提にしてこそのことで、「楽しさ」ばかりあふれている世界で楽しい!と感じられるのですかね。

「失敗」すれば、「チクショー…」となって悔しい。

が、悲しい感情がわき、次に「よし、こんどこそ!」という意欲も起こり(そのままあきらめることもありますが。これはこれ)そして成功すれば「ヤッター!」となり、嬉しい、楽しい感情につつまれる。

 

 とくに(4)については、「アイデンテティと個人」ということで、もう少し踏み込んだ考察がなされる。

 あるエンハンスメントは、それを研究・開発した人は別にしても、それを用いる、利用する人は、それによって得られた「望ましい」「優れた」能力なりは、そもそも自分の外側から自分の中・内側に取り込んだものである。いわば、「借(仮)りモノ」である。

 自らの努力・精進で達成したものではない。

「努力」といえば、そのために、そのエンハンスメントを手に入れるために、ほかの欲望をガマンしてたくさんカネをためる「努力」はしたけれど。

そんなたいへんな「努力」をした私は、そのエンハンスメントの力による私は、「私」なのでしょうか。

 たとえば、痩せるために食べたいのをガマンして、ちょっとしんどくても健康器具に挑戦してダイエットする。また、血の出るような(出なくても何らかの)努力の末に目標・目的をクリアすれば、近づけば(前より少しの進歩でもあれば)、達成感ともに、そういう自分を褒めたくなり、それは自尊感情・プライドにもつながってゆきます。

 

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 いじょう四つの論点もたいせつだが、じつはもっと根本的にたいせつなものがあると、マイケル・サンデル(日本でもテレビで有名になった『ハーバード白熱教室』の政治哲学者)は言う。

 エンハンスメントによって「人間が自由であるための前提となる人間のあり方が掘り崩されてしまう」と言うのだ。

 

 どういうことか?

 それが著者も最も言いたいことなのです。

『治療を超えて』の四つの論点、とくに(4)では個人の自由や主体性ということが説かれているが、これに対してサンデル教授は、「人間の力ではなしえないことがある」、人間の限界の自覚をもつこと、それと不可分な「いのちの恵み」を感じ取ることを説く。

つまり、エンハンスメントの問題は、個人の「自由」とか「主体性」、「アイデンティティ」のレベルの問題ではなく、最も根底的な、「人間」の「存在」自体が危ぶまれる問題なのです。

「自然」(「自然」というのは私たちがすぐにピンとくるものは野山・海、地球とか宇宙という「大自然」の方ですが、ここでいう「自然」は時間の流れを含むもっと広いものです)への「畏敬」の念が失われるということ。

 サンデル教授は、「出生前診断」が広がり、おなかの中の子が障害をもっているとわかったら生まないのが賢明な親の判断だ、といわれたり、「親が自分の思うように子どもを選び、変えていく」ということが、社会の「常識」になっていき、「それって、ほんとうだろうか?」とだんだん思われなくなっていくことをすごく危惧する。

慣れとは恐ろしい。

 

「いのちとは授かりものである」

 子どもを授かるとはまさに「思い通りにならないこと」、育てることも思い通りにはいかない。

 だからといって、その子への愛情がなくなりはしない。その子をありのままに受け入れ、その子なりの幸せを得てほしいと願う。

 この「授かりもの」という感覚に人類がこれまでにたいせつにしてきた知恵が存在しているのではないかと、サンデルは言う。

「思い通りにならないこと」つまり「自然」を受け入れることは、換言すれば「予期せざるものを受けいれること」であり、これは何も「出生」に限らない。

思えば、人が生きる中で、さまざまな局面で(「局面」というほど大げさな場面でなくとも日常においても)予期しないことはたびたび起きます。

それに対し、各人各様のしかたで向かいますが、たいていは自分なりの「折り合い」を「ほどほど」のところでつけるのでしょう。

その際、各々のやり方で対応していても、そこにはいつも家族、友人、祖先…といった限りない人々との絆があり、支えられ、助けられている、「お世話になる」「お互いさま」…という感覚、気持ちがあり、それは「感謝」や「謙虚」につながるのではないでしょうか。

 彼(サンデル教授)は、「いのちとは授かりものである」をさらに考察し、最後に三つの人間の徳、価値観をあげる。

【1】謙虚【2】責任【3】連帯

これら三つは相互に関連し合っています。

思い通りならない、予期せざることが人生には日常茶飯事に起きます。「謙虚」はさっき述べた通りです(「畏れ」を感じると謙虚にならざるを得ない)。

「責任」について。エンハンスメントが一般常識になれば、なんらかの「失敗」の責任は個人に押しつけられやすくなります(いわゆる「自己責任」)。たとえば病気やケガ。昔は「人知ではどうにもならないもの。しかたないもの」と考えられ、だれがいつ、どういうかたちで災難に逢うかわからないので、そういう災難に遭った者(その家族を含めて)をみんなで助け合うこと(ここで「連帯」が出てきます)になりました。が、ここでは、病気にかかり、ケガに遭ったのは本人の「健康管理」がよくなかったのだ、ということになってしまいます。

 

 著者やサンデル教授が述べていることから、私はつくづく思った。

「人間の力ではどうしようもできないもの。 なーに?

ハイ! 人生そのもの

 

                  ちりとてちん