カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2016.9.27 心配してもしかたない? 未来のこと④ 

 

                                                  カメキチの目

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・人生は一回きり。

 そんなことわかっている。

 しかし、ずっと遠い先。二回どころか、三回も四回もやれるかもしれない。

一回じゃなくても「人生」というんですかね?

「いのち」や「人生」というと私はすぐ、加川良というシンガーソングライターが40年以上の昔に歌った「いのちはひとつ じんせいはいっかい だからいのちをすてないようねー…」というのを思い出します。

 いのちは一回限り。

 

「限りある」(一回きり)がもたらすことについて、著者は『ようこそダウン症の赤ちゃん』という本を引く。

 

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「限りない」生命科学の追求、バイオテクノロジーの発展は幸福を人間にもたらすのだろうか? 

 より優れた素質、その元となる遺伝子を操作して選び取ることはすばらしいことなのか。

 死にたくない。長寿を願うのは、生き物としての人間の本能的な「欲望」、「サガ」というものだろう。 

欲をもつのはいいですが、「落とし穴」に気をつけなければなりません。

① 容貌を今よりもマシにと望めば、「ほんの少し勇気を出して」美容整形し、「美人」に変身する。それにはけっこうのカネがかかります。

②思えば「美人」も「優れた自分」も相対的なもの。どんな価値観・基準で、しかも誰が判断するのでしょう?上をみても下をみても「比較」は「限りない」のです。「無間地獄」みたい…

 

 その選別から抜け落ちた、こぼれた いのちはどうなるのだろう?

 いまでは出生前診断というのが可能となり、男女はおろか、染色体の異常の有無までわかるという。

 

 たとえばダウン症の子どもが産まれそうだとわかるということだ。

 ダウン症のような障害児を持つことは、それだけで不幸なのだろうか?

 

 確かに障害を持った子どもはそうでない子よりできないことが多くあり、親などまわりの手がかかる。

 だが、そのことがその子じしん、まわりの不幸につながるだろうか。

 そもそも、ダウン症とかの「障害」。その障害はただす、曲がったモノをのばしまっ直ぐにするようになくすべきものなのだろうか。

 障害者だけでなくお年寄りや妊婦さん、小さな子ども、性同一障害者、外国籍の人…、いわゆる「社会的弱者」と呼ばれる人たちは、その「違い」そのものが「不幸」ではない。

 別に役所や私鉄が「優先席」その設置の是非はいろんな言い分があるでしょう。を設けなくてもいいような世の中になってほしい。

いつもは「社会的弱者」でなくても、そときだけ気分が悪くなったなど、一時的に弱者になることは誰でもありますね。

 

私は55にして不慮の事故から身体障害者になりました。

救急搬送された病院では「死んだとしてもしかたない」と言われましたが、「悪運」強く生き残りました。

生き残って思うことはいっぱいあります。

家族のありがたさを言い表せないほど感じたとか、世の中すべてが輝いてみえたとか…。それらの感謝や喜び、幸せのもとは、障害者となったがともかく生き残った、ちょっとカッコよくいえば「サバイバー」になったことでした(ついでに言えば、がんサバイバーでもあります)。

これは平たくいえば「不幸中の幸い」というものであります。

つまり、「幸福」とは相対的。

人は限りなく不幸にもなれるし、限りなく幸せにもなれる。

ブゥブゥ…文句ばかり言っている間はけっして笑えない。

(でも、文句言うからとめどのない「科学技術の発展」があるんですね。

人間の「業」というものでしょうか)

 

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 そして著者は、「限りあるいのち」を考えさせる(文学作品だから「感じさせる」といった方が適切)優れた題材として、次に深沢七郎の『楢山節考』という有名な小説を引く。

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 いわゆる「姥捨て」伝説、しきたりの物語だ。

 死期をさとったおりん婆さんは、雪深い山奥の山また山を越えた死に場所まるで死を予感した象のようですね。象の場合は子象が親象を背負いはできませんが。へ息子の辰平に背負われて行く。

 家族みんなが食っていくための(口べらし)嬰児殺し=「間引き」とともに、とても貧しい昔の風習であった。

 表面的には、たしかに悲惨・陰惨なイメージが強く、むごく悲しくやり切れないのだが、『楢山節考』で深沢七郎はなにが言いたいのか、言おうとしているのか。『いのちを…』の著者、島薗さんは深く考えた。

 人間。誰しも死にたくはない。長生きしたい。

 おりん婆さんだってそうだ。

 だけど、いのちには限りがある。それに、婆さんの家族も村の人たちも貧乏で、食べ物にも限りがある。

 どうすればいちばんいいか?…

 

「姥捨て」の習俗は、日本似たような風習がある国・地域もあるようです。の極貧の農山村にうまれたが、それは村のみんなが生き続けていくために、長いながい歴史を通じてあみ出した村人たち庶民の智慧だった。

 おりん婆さんはずっと昔からの村の「掟」をたいせつなものとして受けとめ、自らすすんで「死」を受けいれた。

 おりん個人は死に、消滅するが、辰平や村人たちの中に生き続けるのである。

 一人ひとりには「限りある」いのちだが、村の地域や国と言い換えてもいいです。人びとに受け継がれ、そういう「いのちのつながり」「いのちの鎖」を通じて「限りない」ものになっていくのではないだろうか。

 

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 そうか!

 自分の死後、ブログのみなさんのどなたかに(じつのお顔も本名も知らなくても)なんかの折にひょっとして思い出していただけるかも知れない。

 そんなことより、今こうして読んでくださることによりつながっている。

 

 やっぱり、ブログはすごい。

 

                   ちりとてちん

 

先日、パソコンがダメになりました。次の更新がいつになるのか不明です。ゴメンなさい。

 

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