カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2017.6.14 ネトウヨ

                                                  カメキチの目

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戦争」とか「憲法」とか「人権」。

 

「またアレか。そんなことわかっている! うるさいなぁー…」と読む気をなくする方もおられるに違いない。

ただこういう政治へのみかた、考えもあるんだなと思ってくださいね。 

日本国民をやめない限り、政治はこっちが拒否してもあっちは逃がしてくれません

 

 ところで、言葉だけの問題かもしれないが

よく「ネトウヨ」という言葉を聞く。

 しかし、「ネトサヨ」は聞いたことはない。

 

 若いころの私は、右翼・左翼というイデオロギーの対立に敏感だった。

・昔は資本家、経営者がカネでヤクザ・暴力団を雇い(しばしば国家権力としての警察も結託し)、労働運動を潰しにかかりました。

若い方たちの中には知らない方が多いと思いますが、今の「JR」は昔は「日本国有鉄道」といい、路線は全国を通じており、そこの労働組合は日本全体の労組運動に影響を与えるほど強いものでした。しかし、国鉄日本国有鉄道は乗客・利用客へのサービスも経営効率も悪いと言われ、民営化ということで現在のように、JR北海道からJR九州と分断されましたが、ほんとのところは国の「合法的」な一種の「組合潰し」であったともいわれています。

・一方、学校の先生たちの教育運動は主権者としての国民の形成、人権や民主主義を子どもたちが身につけていくためのものなので、資本家・経営者たち、つまり支配者は、子どもたちが労働運動するようなおとなへと成長していくのは自分たちの利益に反するのでガマンならず、労働運動とともに潰さなくてはなりません。

・しかし(実際は守られていなくとも)理念として国民主権・平和(戦争放棄)・人権尊重を掲げた日本国憲法や、それに基づいたさまざまな法律があり、北朝鮮のような独裁国家ではない法治国家の体裁は順守しなければならなりません。つまり、「命令」でコトを運べず、形は法(ルール)に則る必要があり、労働の現場も教育の現場も、政府が「合法的」に、財界と一体となって弱小化しました。こんにちの労組の弱さ、学校現場のお上の管理の強さは、そのなれの果て。

純化すれば、こんな筋書きだと私は信じています。

 

 だが今は違う。

 右翼・左翼というイデオロギーの対立には敏感でなくなった。

正確にいえば、「敏感でなくなった」のではなくて、右や左と分けて考えるバカさに気づいた。

「ネトサヨ」がないように、ネット右翼もないと今は思っている。

いまは、「イデオロギー」や思想のレベルでは右と左にわけるような「分断」でなく、客観的にはお互いが違うということを認め、尊重しあって「共生」してゆくのがいちばんだいじではないか。

 

 と、極楽とんぼみたいなオメデタイ、ノー天気なことを書いても、オマエ呼ばわりや「死ね!」「殺してやろか」「出ていけ!」など聞くにたえない書きこみ、コメントが蔓延しているネットの「現実」(現実世界ではヘイトスピーチを知らないわけじゃない。

 でもそういった罵詈雑言の類は、「右翼」とはまったく関係ないのではないか。

「右翼」とか「左翼」という色分けそのもの、分断が時代おくれではないか。

 右も左もない。

 

 あるのは、インターネットを通しての「いじめ」「ハラスメント」。

「ネトイジ」、「ネトハラ」というべき。

 ヘイトスピーチをする人たちを右翼というのではない。原発や安保法反対と叫ぶ人々を左翼というのではない。

 

 人権を否定し、暴力で人を支配し、弱いものは絶えればいいと思う。

 ウソをつき、人をだまし、あざむく…。

 それが人間の本質だと本気で信じている人が、悲しいけれど、広い世界にはいるのかもしれない。

 社会、世の中の一方にそういう考え、思いの人たちがいれば、「そうではないんだよ」とさまざまな言い方で言っていかなければならないのではないか。

 

きれいなきれいな水中映像をテレビでみていて、ツレが「私、こんど生まれかわったら、水中写真家になりたい」と言った。すばらしい写真撮って、いっぱいの人に喜んでもらいたいようだ。いいなあと思った。

私は虫がいい。できたら花バチになって花の間を蜜を求めてとび回りたい。いま自分が生きるために蜜を集めていることが、花の命が続くことに役立っている。

 

  

                  ちりとてちん

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