カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

カメキチの目(2015.10.11 社会を変えるには②)

                                                  カメキチの目

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  「現象主義」という考え方があることは聞いたことがあった。

 でも、よくわからなかった。

 それが、この前の『社会を変えるには』という本でわかった(気がした)。

 

 人とモノ。人と人。モノとモノ。

 ふつうはそれぞれ、それ自体(一つの個体)が独立して存在するとみるけれど、現象学では何かとの“関係”として存在する、とみる。

 たとえば、“私”はあなたあっての私。

 つまり、①“関係”がキーワードである。

 

“関係”は仏教でいう“縁”に近い。

 仏教といえば“無常”も説く。

 それは現象学的では“関係”を変わらぬものとしてではなく、変わっていくものとして、時間の流れのなかでとらえようとする。

 つまり、②“時間”もキーワード。

 

 この観点から、社会運動をとらえれば、この前の安保強行採決は防げたのか?

 コトはさように簡単にはいかないけれど、少なくとも落胆しなくてイイと思えた。

「こんな国民と政府の関係がいつまでも続くはずない。そのうちなんとかなるわな」

 

 ところで、現象学は何も“社会”や“社会運動”についてだけのことではない。個人のレベルにも当てはまる。

 思いあたるフシはありありだ。

 たとえば、ケンカ。

 ケンカ(国では戦争)は、そのときの状態(相手との“関係”)があり、自分または相手のひと言や態度が引き金、きっかけで起こる。その言葉、態度のもとには何かとの“関係”がある。

 そして仲直り。いろいろあって(時間の経過)、多くはそこにこぎつく(たまにケンカ別れや離婚もありますが、私は若い人たちに、早く結論を出すことを強く戒めます)。

 このとき、相手方の「ゴメン…悪かった」にたいていは納得する。納得すれば、「いや、私だって…」となる。お互いさまだ。

ノーベル平和賞をもらった団体の受賞理由は“対話”だった。“対話”・“お互いさま“は人類共通の理念です)   

 では、なぜ、「ゴメン…悪かった」と(自分or相手)先に謝れるのか。

 

 そう考えてみて私は気づいた。

 社会や運動、人生でも、まずは他国や他の地域の人びとを、家族や友人・知人を、信ずることがたいせつだ。信じなきゃ“関係”が結べず、その“変化”もない。

 そう考えて、私には日本国憲法のすばらしさが感じられた。前文はこうくる。

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「…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」

 

                    ちりとてちん

 

 93 リンゴ

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古い世代のわれわれには、リンゴといえば、

♪「リンゴかわいやー かわいやリンゴ…」

 

 

 

 

 

 

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