カメキチの目
今までもなんどか書きましたが 旅が好きである。
私は「月日」ではないけれど、月日、つまり時間の流れを「百代の過客」と言った芭蕉の感性には驚くほかない。
『方丈記』を読むことを退職時の課題にしながらも、3年たっても果たしていないくせに、ずうずうしくも『奥の細道』を読んでみたくなりました。
彼は禅の坊主ではなかったが、禅にとてもひかれていたようで、有名な「古池や…」なんかはその境地そのもの。
私は身体障害者となって年老いつつあったことも関係あると思いますが急に仏教、とくに禅に魅力を感じるようになった。
若いころは、そういう「精神」・「心」、つまり内面、とくにこまやかな世界、繊細でいろどり豊か、静寂な美など、ワビ・サビも、自分とは無関係だと思っていた。
それにそれが、世の貧困や「平和」という大義名目をかざした「戦争」という合法的な殺人がまかり通っている、現実社会の矛盾・不合理から目をそらさせるものと、単純であさはかなとらえ方しかできなかった。
なんという短絡思考!
ピラミッドをみて「あれはファラオの象徴だ」とひと言のもとに決めつけ、具体的につくったのは被支配者・奴隷であったこと、今も謎(?)になっているさまざまな不思議(知恵とか)、などに想いがいたらなかった。
要は、世の中は支配する者(権力者・強者)される者(庶民・弱者)に大別されるという二分法・黒白思考(灰色を見ようとせず、“中庸”を解せず)で、何でもみていたように思う。
社会構造をみるときの大まかはそれでいいと思うけれど、“社会=人生”ではない。
私たちは、社会、世の中で生きるしかないが、それを超えることができる。
もちろん、知らぬところで意識しないところで支配・被支配の関係に巻き込まれているのかもしれない。
そのことは疑ってみなくてはいけないと思います。とくにマスメディア・マスコミにはごまかし、ウソを知らぬ間に催眠術をかけられているように信じこまされていることがあります。
が、人生は深く広い。
人生を社会にからめとられてはいけない。
と私は反省しました。
若いころ(いえ歳とってからも)安月給だったことは社会のせいにしていました。が、私の真意は自分の人生を安月給に応じたものにはしたくなかったのです。収入の多寡で人生を支配されてたまるか、と思ったもんです。
あっ、旅の話が横道にそれました。すみません。
しかし、旅のことを書こうとすれば人生につながります。
長くなりましたので次に続きます。
熊本の大地震からもう1週間が経ちました。
震源地から近い熊本市東区に友は住んでいます。夕べ、やっと水道が使えるようになったと喜んでいました。
しかし、熊本県だけでなく大分県などにも先行きもわからぬまま大勢の被災者が避難されています。