死んで消えゆくまでの時間はそれほどない。
(ちょっと先、明日かも?)
けれども、生きている間は「自分」にこだわるのダ!
(と、いつも思っている)
そういう自分にピッタリの本を見つけた。
『「私」とは何か-ことばと身体の出会い』 浜田寿美男 著

(グーグル画像より)
深くうなずく話がいっぱいあったのですが、
① 図と地
② 思い込みを取り去る
③ 最初にあるのまず他者との関係性
の三つだけ書きます。
(1回一つなので3回連続)
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① 図と地
「〈身体の地のうえにことばの世界が図として浮かぶ〉
人間の知覚現象はつねに、意識がテーマとして向かう図と、その背景となる地に分節する…
つねに身体で生きる世界が地になっているのである。
→(生きるとは「意識がテーマ」になっているので「ことばの世界が図として浮かぶ」)
…
〈視点を重ねる〉
自分の視点を撮影者の視点に重ねる以外のかたちで写真を見ることはできない。
…
〈立ち上がる絵、立ち上がることば〉
(著者は、具体的な例として「だまし絵」《たとえば前の記事の錯視》を挙げ、
「映し出された(平面)図は

立体の言わば影として、もとの三次元空間を指し示し、人の目のまえでいつも可能なかぎり
立ち上がろうとする」と述べ、《上図の+部分を「ことば」と見立てるなら》、
「ことばもまた立ち上がる」という)
読者の側であえて読み取ろうとせずとも、ことばは自分のほうから立ち上がってくる。…
平面に描かれた絵が、おのずと立ち上がって立体に見えてくるのと同じである」

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日々、瞬間瞬間、絶えず目は動き、意識は働いている。
だからこそ、「注視」「注意」という行為、力によって身の安全がはかれる。
私たちは(深呼吸するときなどを除き、いちいち意識することなく自然に)息をする。
そういう当たり前を、「図と地」という見方は意識させてくれた。
ーーー
しかし特定の何かに意識を向ける、何かを見ることは、別の特定の何かが
抜け落ちる(抜け落ちやすい)ことでもある。
(「地と図」。地図を見ているとき目的《意識の対象》ばかりに目が向かい、周辺はボヤける)
できれば「常に」、その抜け落ちる(抜け落ちやすい)何かにも意識を向けたい。
常に自分の周りのいろいろに意識を払うことはできないが、意識から抜け落ちる
何かがあることは忘れないようにしたい。
(そういうことは意識できる。

障害者になったのは20年近く昔。ある樹に3mくらい上って剪定する仕事をしていたとき
《熱中症で意識がとんだのか?》コンクリート地面に落下したのが原因。
当時の私は万一のためヘルメットを被るという安全意識はまったくなかった。
主な障害は平衡障害。フラフラするので杖が欠かせない。眼振、複視という目の障害もあり、
見たいものが振れない視界に入るよう首を動かし、そのものに注意を向けて見る《「注視」》。
見る、見つめるものしかハッキリしない《周囲はボヤけ、ほとんど判別できない》。
「つねに身体で生きる世界が地になって」「ことばの世界が図として浮かぶ」という意識の問題を、
私の場合、眼振、複視という目の障害があるので視覚という問題からも実感している。
何か特定の物《図となる物》を注視すれば、つまり図を見ようとすれば、図は立ち上がってくる、
浮かぶけれど、周り《地》はボヤけてわからない。
わからない中に、大切な何かがあるかもしれないのに…)

六億年 前も汝は 油虫 辻田克己