カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

カメキチの目(2014.7.6 なんども「顔施」)

 

  ♭ おたずねくださり、ありがとうございます 

  

 (ブログパーツUL5人目の方)

 

 

 

 「顔施」ということでこれまでもなんどか書いた。

「顔施」とは仏教のお布施の一種だ。意味は読んで字のごとし。「顔で施す」。

「わしの顔でもできるかいな?」と心配する必要はありません。その気があればだれでもできる。

  

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「顔施」は「和顔施」(わがんせ)ともいい、だいじなことは「表情」である。

 いい顔して、他人にいい気持ちになってもらう。内心はプゥーであっても外面・見ばえはよくする。つまり、「ブリっこ」するわけだ(ブリっこ顔が、プゥーな心を変えるかもしれないね)。もちろん、内・実際と外・形が合うことがいちばん望ましい。

(しつこくもまたご登場ねがうが)日帰り湯の女性スタッフの「ツン」、小さな駅の改札係の「シブ」と正反対なのが「顔施」である。二人から、「プロとは」と考えさせられた(プロはいちいち家であったことを職場にもちこまない)が、このまえテレビをみていて、さらに考えさせられることがあった。それが「顔施」である。

 

 退職してからは圧倒的にテレビをみることが多い。

 先日ふと思ったテレビ画面に見いっていることは多くても人の顔を直接みることはあまりないなーと。私の場合、妻いがい、しみじみ眺めるのはテレビのなかの赤の他人である。今ふうに言えば、リアルでなくバーチャルな世界を生きているわけだ。

 テレビのなかのベテラン俳優、「いぶし銀」と形容される役者さんの表情・動作には、あらためてお礼したくなった。さすがはプロだ。とくにドラマの終わり、なんらかの決着がついて見せる顔が名状しがたい。ときには「こんないいものみせてもらって長生き(それほど長くはないか)してよかったな」と思うこともある。

 

 いまは、そんな話をしたかったのではない。

 数日前のこと。夕方のニュース番組の特集で、生まれつき手のない子どもが残された腕に義手をつけ、脳からの微弱な電流で動かす話が取り上げられていた。この春、幼稚園に入ったばかりのその女の子、彼女の友だちの健気な姿に、視聴者だれもがウルウルきた。ところが、ウルウルはわれわれだけではなかった。

 番組キャスター。ご自分にも同じくらいの子どもさんがおられるのか、声がくぐもり、目が濡れていた。

「いいキャスターだな…」。しんみりなっていたら思い出した。

 阪神・淡路大震災の報道のとき、NHKのアナウンサーが泣きながら伝えておられた。アナウンサーのそういう取り乱した姿をはじめてみたのでびっくりした。その方の顔、声にたまらなく切なくなった。その場面。いまも忘れていない。

  

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                               ちりとてちん

 

 

 

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