カメキチの目

2006年7月10日が運命の分かれ道、障害者に、同時に胃ガンで胃全摘出、なおかつしぶとく生きています

2024.1.30 為末 大 (前)

坊さんの釈撤宗さんという方が各界の有名な人との対談される本を読んだ。

(釈さんは昔、NHK「シブ5時」の人生相談コーナーに出ておられ、その人柄に惹かれた)

 

『住職さんは聞き上手』 

 

 

心に深く響いた話だけを書きます。

今日はアスリートの為末大さんとの対談。

今日と次の2回に分けます)

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 為末:(甲谷匡賛さんというALSの方の言葉を紹介)

「自分とは、関係性の中で一時的に成り立つ虚構過ぎない」

 為末:

可能性(言い換えれば「頑張ればできる、叶う」ということ)ばかりを見せつけられる残酷さ、

どこまでも成功を夢見て現在に意識を置いておけなくなる不自由さ(為末さんはアスリートらしく

不全感」という言葉で表現)

 

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① 

」という言葉に敏感な私は、たまたまALSという難病になり、

どうしようもない苦難を背負って生きている甲谷さんの言葉には、

とても強く感じ、思うところがあった。

 

関係性」は、「」というものが大きく働いている。

 

」は、自分がどんな時代・社会に生まれ、過ごしている(いた)かという

社会的なものが大枠としてあり、その中に、自分という個人の人とのつながり

(人間関係)による悲喜こもごも、たまたまふりかかった病気や事故、自然災害

ある。

(同じように災難に遭っても、「不幸中の幸い」に終わることも。

 

いずれにせよ個人の人生は、世の中のさまざまな「たまたま」「偶然」《「」》

の中で一時的に成り立っているといえると、私は強く共感した。

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ALS(ネットによれば1年間で新たにこの病気にかかる人は人口10万人当たり平均2.2人

全国では、令和2年度の特定医療費(指定難病)医療受給者証所持者数によると10,514人

患わっている甲谷匡賛さん。

そのことは客観的な事実。

 

だが、ご本人にすればいま自分はたまたま」(「偶然」)ALS患者であるという

事実は、他のほとんどの(いまは)「健康」な「普通」の人々の生の事実と同じ

ように、虚構に過ぎないと言われる。

 

        


よく「仮の人生」という。

「仮」も何も、その人にとっての人生は、その人にはただ一度だけのもので、

繰り返すことも、試してやり直すこともできない。

現実は事実。

ただし、「事実」だからといって「真実」ではない。

だからフィクション、虚構、小説、想像、物語…は存在するのだろう)

 

客観的には(他人が見たら)あまりに辛く悲しい、苦難に満ちた人生であっても、

当事者にしてみれば、本当の人生は(いまは分からないが、いつか分かる日が来なくても)

どこか別にあり、いま自分は(「虚構」の世界)を生きていると想うこと、

信じることは救い、生きる力になると思う。

「かもしれない」「だったかもしれない」と想像してみることの大切さをあらためて痛感した)

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私自身は「成功を夢見て現在に意識を置いておけなくなる不自由さ」を感じるまで

頑張ったこと(ちょっととはやったと思うが、「死ぬくらい」頑張ったこと)なく、安楽と

自由に流れた。

(いけないと分かっていても、若いころ、この場合は仕方がないと自分を納得させウソをついた。

いわゆる「方便」。家族に心配かけたくなくて、努力している頑張っていると

 

私はやってみたい、なりたいことがあっても「これは自分には無理だろう」と

決めつけ、可能な努力も挑戦もすることなくあきらめた。

(だから「不全感」を抱くこともなかった)

 

情けない、ヘタレな自分は嫌だけど、「否定」はしないし、しなかった。

(嫌でも認めるしかない、嫌な自分をちゃんと認める、そこからしか自分の生き方は始まらない、

そう思った。

「努力」「頑張り」が苦手なのは、その能力が不足しているせいと、自分勝手な理屈をつけている)

 

 

 

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                             ちりとてちん

今日の俳句

着膨れて なんだかめんどりの 気分  正木ゆう子

 

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