池上彰さんの『おとなの教養3-私たちはどんな未来を生きるのか?』の
経済的「格差」の是正の具体的方法、「社会的共通資本」という考えに
強く惹かれた。
(ともにこれからの資本主義、ポスト資本主義ということを考えれば決して避けて通れない)
それで、あらためて「資本主義」について思った。
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現在のパレスチナやウクライナに当たりそうな、半世紀以上も前のベトナム。
(戦争を始める側にも、それなりの理由は見つけられるけれど、戦争を仕掛けられた側が相手国の
「それなりの理由」を受け入れるわけにはいかないとき、抵抗し、戦争は始まる。
そして犠牲になるのは常に前線の兵士、一般民衆)
私はベトナム戦争で社会に目が向く(「向けさせられる」)ようになった。
「社会に目が向く」のはいいが、ベトナム戦争のときは資本主義vs.社会主義の
面があり、階級闘争に公害などさまざまな社会問題が結びついていたので、
資本主義の矛盾はまだ働いていない私でも感じた。
資本主義はいずれバブルのようにはじけ、日本は(ソビエトや中国のような「古い」
「遅れた」社会からでなく)発達した資本主義、自由主義社会からの変革だから、
いずれは暴力によらない平和的な「革命」が起き、すべての国民が真に平等で
自由な社会主義になるだろうと(漠然としていたが)信じていた。
(歴史を見れば、紆余曲折を繰り返しながらも結局は、人類は「より好い方向」に進んでいる。
核の時代の「現代」は、まかり間違えば「人類絶滅」に至るリスクがとても大きい。
何かの感情に流され、誤って核発射ボタンを押したとすれば、後戻りはできない。
《「絶滅」だから「紆余曲折を繰り返」すことさえできなくなり、
これまでの歴史のようにはいかなくなる》
でも、死ぬのは自分だけでなく皆。「絶滅」。
「赤信号 みんな渡れば怖くない」と思い直した)

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先日たまたま、同じような内容の、同じような感慨を抱かせる世界の鉄道の
番組二つを観ていたら、「資本主義」や「格差」などにこだわるのが
バカバカしく思えてきた。
(一つは南米6カ国の鉄道旅。それぞれの国の鉄道に俳優の玉木宏さんが乗って旅するもので
番組名は『遥かなる南米鉄道の旅』という。
もう一つは同じく俳優の中山卓也さんが、マレー半島の端、シンガポールからマレーシア、タイ、
ラオス、中国、そこからヨーロッパの端まで列車で旅するもの。『地球鉄道』という。
《『地球鉄道』の鉄道は各国の鉄道が連続しているので一本の線のようにレールは伸びている。
『遥かなる南米鉄道の旅』の方はもう終わったが、『地球鉄道』はまだ放送中》)
どっちの旅も、世界遺産や有名な観光地もときどき訪ね、紹介もするけれど、
どっちの旅も、番組の狙いはそういうものではない。
大自然や農村、街の風景・景色だけでなく、そこで生活を営み、暮らす人々の
日常を、たまたまその列車の車内で声を掛けたり掛けられしたことをきっかけに
途中で下車し、その人の家に招かれて触れあう姿などが細かくていねいに
描かれていた。
(観光地や世界遺産もいいけれど、私としてはその国のどこでもあるような人々の普通の生活を
見聞きしたいのでとてもよかった)
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ところで、何で「バカバカしく思えた」のだろう?
南米や東南アジアで出会った人たちは、一言でいえば、たぶん「運命」など
自分の力でどうしようもできないものにはゴチャゴチャとこだわることなく、
(決して「諦める」というのではなく)生まれたところ、与えられたものに満足し、
ガツガツしない暮らし、生き方をされているからだと思う。
(私がそう在りたいと願う「今・ここ」を大事にする生き方、仏教の禅的な生き方だと思った。
タイでは中山さんが現地の人にちょっとしたことを聞いたりしただけの触れ合いでも、別れ際、
お互いが感謝や挨拶など親しみの心を両手を合わせる合掌の格好で表わされ、
一視聴者のこっちまで温かい気もちになった。
ひと口にタイといってもバンコクのような大都会と圧倒的に多い農村部とは、それこそ「格差」が
あるのだろうが、経済的「格差」があっても仏教の心もあるので、富裕であっても「お布施」という
寄付の形が広く行われており、その行為が少しは格差解消につながっていると思う。
しかし、現在はスマホが普及して世界の情報に簡単にアクセスでき、世界が近くなって自分と他と
比較することが可能になった。
ゆっくりであっても、これからタイも大きく変わるのだろうか。
いまも忘れない若いときの思い出に、安かったので買った中国製の服の縫製がとてもていねい、
几帳面になされていたというのがある。
いまでは評判の悪さで有名な中国製品。現代は「格差」の大きさも日本どころではない。
タイには絶対、見習ってほしくない)

東南アジア諸国は広大な自然の農村部。
そういうところでの撮影、取材が圧倒的に多かった。
都会は「資本主義」を感じさせるものばかりで日本と大して変わらない。
道路、交通、建物や設備など周囲、環境が近代的・現代的なばかりではなく
(日本の都会には及ばないが)人々もせかせか足早に通り過ぎて行く。
(これも日本の都会には及ばないが)スマホに見入っている俯いた姿勢の人も見られた
(違うところといえばそれぞれかつて長い間、ヨーロッパの植民地だったことで建物とか街の風景の
あっちこっちに遺物があったりして、文化の影響を大きく受けていたことが感じられる)
農村部も一部には「資本主義」を感じさせるものが見られても、
そういうモノやコトはまだまだ少ない気がした。
(インドシナ半島ではどこまでも続くヤシの木の叢林。南米コロンビアやブラジルでは
コーヒーの木などが見られ、「プランテーション農業」を思わせた。
ペルーではインカを感じさせるアンデス山麓を走る《現地のインディオの人たちには一生かけても
乗れないような、欧米などの富裕な人たち向けのような《イギリスの会社が設置運営》観光列車が
走っていた。
それでも観光案内の常務の仕事には現地の若い女性が採用されており、彼女に質問する玉木さんに
笑顔で生き生きと応えていた。インカ、インディオの誇りをもって働いておられるのだ)
二人の俳優さんとも、「格差」の存在の不合理にやり切れなさは感じても、
それを苦にしない、初めに書いたような「生まれたところ、与えられたものに
満足し、ガツガツしない暮らし、生き方」に感動されていた。
(こういう番組に出られ、こういう体験をされ、そのことだけで俳優になってよかったと
お二人とも感じられたのじゃないかと私は思った)

口癖が 「別に」の彼と 冬木立 津田このみ